地車型分け図鑑:岸和田型

※写真をクリックすると拡大します。
岸和田型〈斜め前)
岸和田型〈斜め前)
岸和田型(斜め後)
岸和田型(斜め後)
からくり地車
←からくり地車
からくりで大屋根を下げた泉佐野市長滝中ノ番の地車《文久2年(1862)岸和田市大工町新調》。
現役はこれ一台のみ!
腰廻り
腰廻り
見送り
見送り
切妻
切妻
入母屋(二重破風)
入母屋(二重破風)

主に、泉大津市と泉北郡忠岡町の境界のあたる『大津川』以南で、曳行されていたことから『下だんじり(下地車)』とも呼ばれる。
昭和中期までは、岸和田市・忠岡町・貝塚市・泉佐野市・熊取町・田尻町・泉大津市の一部などの泉州地域で主に曳行されてきた。
現在では、新調や譲渡により、堺市・大阪市・東大阪市・和歌山県橋本市・奈良県の一部などでも曳行されており『下だんじり』と『上だんじり』の明確な分布の境界線も変わってきている。

形態的な特徴としては、大屋根・小屋根の段差が大きく、軒の出幅も大きい。
枡組は装飾的要素を持つ「化粧枡」で細工。その段数も多い。
大屋根を支える四本の柱は、一本の「通し柱」ではなく、内側に溝が彫られた角の「筒柱」が台木から立ち上がり、それに添う上部が丸で下部が四角い「丸柱(舞台柱・四本柱)」との組柱構造。
腰廻りには、梶を取る「担い棒」はなく、四段(往古は三段)に積み重ねたれた彫物が施されている。
見送りは、馬乗りや武者の彫刻人形がジオラマの様に立体的に配置されている。
後幟を取り付けるための「摺出し鼻」や「旗台」が付く。
梶を取るために、前梃子・後梃子を用いる。
勾欄は「刎勾欄」で細工されている。

『岸和田の大工が創意工夫を重ね、進化を遂げてきた地車』

岸和田型地車の誕生は、天明5年(1785)、岸和田北町の油屋治兵衛という世話人が、泉大津から古だんじりを借りてきて曳こうとするも、背が高すぎてお城の門をくぐれず、急遽杉丸太の柱に取り替え屋根を下げて曳行したのが、岸和田における地車曳行の始めであり、今の地車の原型であると考えられている。
明くる天明6年には、銀三百五十匁にて北町が地車を新造。この地車が岸和田型地車の新調第一号ではないかと思われる。

往古、岸和田において地車を製作するにあたり難問となるのが、岸和田城内に城入りする際、城門を通らなければならないことであり、これを可能にしたのが屋根の上げ下げが可能な「からくり地車」の誕生であろう。
幟差しの上を後方へ小屋根をスライドさせ、滑車を用い組柱で細工した柱で大屋根を上下させるが、この「からくり」。江戸幕藩体制が消滅した後も、しばらくはこのタイプの岸和田型地車が製作されていたようである。

明治期に入ると、城門を通る必要もなくなったことから、屋根廻りの組物が増えるとともに、土呂幕は筒柱を覆い、土呂幕上の連子も大小二つに分かれ、腰廻りの彫物も四段型式となる。
したがって、岸和田型地車が大型化していくのもこの頃からと考えられる。

大正期に入ると、大屋根下に「隅」が掛けられ「扇垂木」が施された「入母屋屋根」が登場。
昭和期になると、形式もほぼ現在の形となり、「仕入れだんじり」と呼ばれる出来合いの地車が多く製作され、岸和田型地車が広がっていくことになる。

太平洋戦争後の昭和33年から52年までの20年間は、社会構造の変化などにともない、地車の新調もおこなわれず「地車衰退期」を迎えることになるが、昭和50年代に入ると地車復活、地車新調ブームが起こる。
その後今日まで、岸和田型地車においては形式の変化は余り見られず、大正・昭和初期で岸和田型地車のスタイルが定着したといえよう。

なお、岸和田型地車の大屋根には「切妻型」と「入母屋型」の二種類が存在。
「入母屋型」の大屋根には「軒唐破風(通称:二重破風)」と呼ばれる形状のものがわずかながら存在する。
また、往古の岸和田型地車の小屋根には「切妻型」も見られたが、現在では「軒唐破風(通称:二重破風)」で細工されるのがほとんどである。