地車型分け図鑑:分類の難しい地車

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竹之内の地車
竹之内の地車
竹ノ内と同様の上桧垣本の地車
竹ノ内と同様の上桧垣本の地車
「古市型」?古市東之町の地車
「古市型」?古市東之町の地車

「だんじり」の起源は、明らかではありませんが、貝塚市感田神社の記録には元文6年(1741)に『北之町よりだんじり(布団太鼓)は出たが、堺より引きだんじりは借りてこなかった』とあり、1741年以前にはだんじりが存在していた事が判明しています。
おそらく16世紀(1700年代)の初頭には、「だんじり」と呼ばれる曳きもの・練りものが存在していたのではないかと思われます。

300年以上のだんじりの歴史の中で、これまで多くの大工の手により製作され、多種多様、多くの形態の地車が誕生し、また消え去ってしまった地車も多く存在するのも事実です。

現在では、摂河泉紀和、近畿一円に900台以上の地車が存在していますが、製作されてから年月を経て老朽化のために修理・改修がこれまで幾度となくおこなわれ、その原型すらうかがい知ることのできない地車が数多く存在し、分類も複雑困難になっているのが現状です。
また、原型のままであっても、同一形状のものが少なく、その曳行(保有)地域すらまちまちになると、呼び名を付けるのさえ困難な場合もあります。

たとえば、奈良県葛城市竹之内の地車は、小屋根を支える柱が無く、「持ち送り」で支えられているという特殊形態の地車です。
同様の形態のものは、平成17年に奈良県吉野郡大淀町上桧垣本で曳行されていることが地車研究者により発見されました。
どちらの地車も、彫物に刻まれた彫物師の銘により、江戸末期に製作されたと考えられます。
上桧垣本では、「竹之内方面から購入した」との話しが残り、竹之内の周辺地域でこのような形態の地車が製作・曳行されていたとも推測できます。
しかし、現存するものが2台だけでは、『竹之内型』として分類するには確たる根拠とは言えないでしょう。

また、羽曳野市古市にも特異な形態の地車が存在しています。
古市東之町の地車や大改修される前の古市南之町の地車がこれにあたり、屋根を支える8本の柱、柱と柱の間に「火燈窓」形式の彫物が施されているのが特徴です。
いずれの地車も江戸末期に地元の大工 松永 某の手により製作されたものです。
しかし、今日では古市東之町や南之町が宮入りをおこなう白鳥神社氏地内の他地区や周辺地域で、同様の形態の地車の現存していませんが、往古にこのような形態の地車が南河内の北部地域で製作・曳行されていた可能性も考えられます。

『なぜ、地車の分類が難しいのか・・・』

上記のように、独特の形態を持つ地車が存在していても、それが一時的にイレギュラーなものとして地元の大工などにより産み出されたもので、その数もわずかであれば、○○型地車として分類する必要性もなきにしもあらず。
このような事例は、竹之内や古市の他にも存在し、地車研究者の間でも判断の分かれるところ。
「大和型」・「五枚板式」・「八尾型」・「南河内型」などなど、形態も多種多様・・・。

如何せん、文献や資料も乏しく、製作から100年以上の歳月を経て、製作年や製作大工を特定する事すらできなくなっている昨今。
地車の売却による分布の変化や修理改修による形態の変化もまた、分類の判別を困難にしています。
地車研究者による新たな聞き取り調査や墨書きや銘などの新たな発見、これまでの資料の見直しなくしては、明確な地車の型分けも無理でしょう。

したがって、この『地車型分け図鑑』とて、今回の分類では不完全。
地車研究者個々の見解の相違もあり、筆者の私「泉州堺のだんじり馬鹿」とて、ご教授をお願いしたい今日この頃なのです・・・。