びわ湖毎日マラソン大会 > 過去の大会トップ > マラソンを楽しむ > 三村仁司さんインタビューVol.1
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シューズ職人・三村仁司。40年を越えるそのキャリアは、アスリートの足元を支える「特注シューズ」の歴史でもある。高橋尚子や野口みずきの金メダルを生んだ三村さんのシューズにはどのような秘密が隠されているのか。昨年、永年勤めた大手スポーツメーカー・アシックスを定年退職し、自身のブランドを立ち上げたという。兵庫県高砂市にオープンした新しい工房「M.Lab(ミムラボ)」を訪ねた。

小さい頃から足は速くて、とくに長距離走には自信がありましたね。中学は野球部で、高校から陸上部に入部し競技に取り組みはじめました。地元の兵庫県は昔から陸上競技が強く、強豪校が多かった。とくに私が入った県立飾磨工業高校の陸上部は、全国大会で優勝経験もある名門校。県下から有力な選手が集まっており、練習の厳しさも半端ではなかったですね。大学の陸上部の選手でも練習に参加すると根を上げて帰ってしまうほどでしたから。同期入部の選手は20人ほどいたのですが、練習に耐えられず次々に退部し、2年生の秋にはたった4人になっていました。
でも、私は辞めようとは思いませんでしたね。ここでくじけたらなんのために陸上の名門高に入ったのか分からない。練習量だけは誰にも負けないようがんばり続けていると、少しずつ実力がつきタイムも伸びる。それが嬉しくて、さらにがんばれる。そうしているうちに思ってもいなかったキャプテンに選ばれました。最初に聞いたときは「まさか自分が」と思いましたが、がんばりを認めてもらえたことは素直にうれしかったですね。努力を続ければいつかは認められると、はじめて実感した瞬間でもありました。
〜いくつもの大学から誘いがあったそうですが、なぜ就職を選ばれたのですか?
大学でも陸上を続けて、もっと上を目指したいという気持ちも当然ありましたが、一方で経済的なことが気にかかっていました。陸上競技に関する費用は月に7〜8,000円もかかっていました。大卒の初任給が15,000円の時代にです。「一生懸命がんばっているのだから」と親は黙って出してくれていましたが、これ以上、親に経済的負担をかけてまで陸上を続けることはできないと就職を決意しました。勉強が好きではなかったということもありますが(笑)。
どこに就職するか悩みましたが、最終的には大手スポーツメーカーのオニツカ株式会社(現アシックス)にお世話になることになりました。叔父がそこの税理士をしていて紹介してくれたということ、就職後も陸上を続けることができるということ、そして決定的だったのはスポーツシューズづくりに携われるということでした。高校で練習をしているときから、なぜシューズがこんなにすぐに壊れるのかと疑問に思っていました。当時、900円前後もしたランニングシューズが2週間に1度は壊れていましたからね。小指部分の布が破れたり、ソールがはがれたり…。確かにグランドは今ほど整備されておらず石ころだらけで、練習量も激しかったが、それにしても壊れるのが早すぎる。「もっと丈夫で長持ちするシューズがあれば、こんなにお金がかかることはないのに」といつも思っていました。オニツカなら自分が履きたかった丈夫で長持ちするシューズをつくれるだろう。入社するのに迷いはありませんでしたね。

〜オニツカ入社後の最初の配属先は希望していた研究室ではなかったですね
研究室への配属を希望したら、「モノづくりがわかってなかったらあかん!現場で勉強してこい!」とどやされましたよ。入社してすぐに「シューズ開発をしたい」なんて、生意気な奴だと思われたでしょうね(笑)。そして第2製造課に配属され、流れ作業でシューズの組み立てを行うことになりました。シューズの形を整える成型と呼ばれる仕事から仕上げまでなんでもやりましたよ。結局そこには5年間在籍しましたが、今から考えるとシューズづくりの基礎をじっくりと学べたいい期間でした。現場で身に付いた知識ほど強いものはないですからね。
〜研究室を経て、たった一人で特注シューズの開発をはじめられましたが苦労はなかったですか?
製造課から念願の研究室に移り、3年間ゴムやスポンジの研究をした後、会社から「特注シューズの開発をせよ」と命じられました。社長であった鬼塚喜八郎さんが「オリンピックに出場するような選手にシューズを履いてもらい一般に浸透させる」という当時としては画期的な戦略を掲げ、特注シューズの開発部門を立ち上げました。過去にも有名選手の注文に応じてオリジナルシューズをつくってはいましたが、それは各部署の人間が通常業務の片手間にやっているだけでした。「これでやっとシューズ開発ができる…」と喜んだのですが、考えが甘かったですね。
当初スタッフは私一人だけ。教えてくれる先輩もいず、全くの未知の領域で試行錯誤の日々が続きました。足型の測定から素材選び、裁断、縫製、成型、仕上げ……すべて自分でこなさなければならず大変でしたね。また当時は知識も経験もなかったので、相手の言うとおりにつくっていました。注文に応じて試作品をつくり、それを履いてもらっては感想を聞く。そして問題があればまた作り直すことの繰り返し。自分の意見も言うことができずに相手の言うままのシューズをつくり続ける。そこに満足感はなく、苦しい時代が何年も続きました。
1948年8月20日、兵庫県加古川市生まれ。県立飾磨工業高校では陸上部キャプテンを務め、長距離選手としてインターハイ等で活躍。1967年オニツカ株式会社(現アシックス)に入社。成型係、仕上げ係、研究室を経て、1974年たった一人で特注シューズの開発を始める。陸上競技のみならず、野球、サッカー、テニス、バレーボール、バスケットボール、ボク
シング、モータースポーツなど、多岐にわたるジャンルのシューズづくりを行ってきた。君原健二、瀬古利彦、谷口浩美、高橋尚子、有森裕子、野口みずき、イチロー、長谷川穂積ら一流アスリートのシューズを手掛ける。2004年、厚生労働省「現代の名工」表彰。2006年、黄綬褒章。
2009年、工房「M.Lab(ミムラボ)」を設立。







