
−巽さんとシンクロとの出会いについて教えてください。
私が2歳の頃、兄と姉と一緒に自宅近くのスイミングスクールに通い始めました。とりあえず「泳げるようになって欲しい」と両親が考えていたんです。水泳を始めたのは2歳ですが、当時はまだベビースイミングですね。それからは競泳の練習をしていて、シンクロに初めて触れたのは7歳の誕生日でした。シンクロコースの体験入学を受けたことがきっかけです。競泳コースの隣でシンクロコースが練習をしていましたし、シンクロという競技の存在自体は早くから知っていました。でも、自分からシンクロをやりたいとは思っていませんでしたね。シンクロコースの体験入学を勧めてくれたのは母でした。
“芸術スポーツ”が好きだった母は、自分の子供にフィギュアスケート、新体操、シンクロのどれかをやって欲しかったんですよ。それで、たまたま私が通っていたのがシンクロの名門といわれるところでしたし、シンクロを始めるには年齢的にも調度良かったので、体験入学を勧めてくれたんですね。その時は、シンクロコースの先生が凄く優しかったことを覚えています。先生が天使のように見えたんですよね。ところが、実際にシンクロコースの練習が始まったら、体験入学の時と違って凄く厳しいんですよ!「あれ?全然違うや〜ん!?」と思ったのを今でも覚えています。
シンクロができる環境って、なかなかありませんよね。私の場合は、たまたま通っていたスクールにシンクロコースがあった。そして、シンクロに触れる機会もあった。もし、そこにシンクロコースが無ければ、私は他の道に進んでいたでしょうから、ラッキーというか何というか……。これこそまさに“運命的な出会い”だと思いますね。
−シンクロを始めるにあたって、適齢期や適性というものがあるのですか?
ナショナルAチームに選ばれる選手の8〜9割が小学校低学年からシンクロを始めていると思います。低学年といっても、3年生なら少し遅いくらいかもしれません。3年生ならスタートする時点で、4泳法(クロール・平泳ぎ・背泳ぎ・バタフライ)の全てができていないと厳しいですね。そういう意味でも1年生、2年生くらいが“適齢期”といえるかもしれません。しかし、そういう幼い時期に自分から「シンクロをやってみたい!」という子供は少ないと思うんですね。やっぱり、両親をはじめとする周りの人たちがレールを敷いてあげるのではないでしょうか。
私は母に勧められてシンクロを始めましたが、私にシンクロを勧めた理由を母に尋ねてみると「目立ちたがり屋だから」と言われたんです。自分では決してそんなことはないと思ってるんですけど(笑)それと、柔軟性のある体だったというのも理由のようですね。決してシンクロの才能があると見抜いていたとか、そういう大袈裟な話ではありません。我が家は「スポーツ命」みたいな家庭で、父が野球、母が卓球、兄と弟も野球をやっているようなスポーツ一家なんですよ。スポーツに対して“熱い”家族でしたね。
−選手として「五輪出場」を初めて意識したのはいつ頃のことでしょうか?
私は他の選手たちに比べると随分と遅いですよ。他の選手たちは小学生くらいから、「五輪出場」が具体的な夢や目標になっていたと思います。私の場合、小学校の頃は地元の友達と一緒に、ただただ楽しくやっていましたからね。当時の私にとって、シンクロはいわゆる“習いごと”だったんです。大きな転機が訪れるのは、中学3年生になってからですね。
ジュニア日本代表の選考会に参加して、私は落選。そのとき、同じクラブの友達は見事に合格しました。「JAPAN」と書かれたジャージや水着を着て遠征に参加する彼女の姿を見て、「どうせやるなら、私も頂点を目指してみよう」と、そのとき初めて思いました。実は、そこには裏話があるんです。沖縄への修学旅行の日程と、代表の選考会の日程が重なっていたんです。コーチからは「代表入りを狙える絶好のチャンスだよ!」と言われていましたが、私の気持ちの中では修学旅行がメインで(笑)
そんな状態で選考会に臨んだので、集中など出来るはずもありません。選考会に落ちて、修学旅行にも行けず……。私は一体何をやってるんだろうと反省しましたね。当時はひどく落ち込んでしまいましたが、努力している友達の姿を見て「私もいつか代表になりたい」と感じることができて、良いきっかけになりました。ジュニア日本代表に選ばれたのは、高校1年生になってからです。結局のところ「五輪出場」という目標ができたのは、高校2年生か3年生の頃ですね。自分が五輪出場を意識できるポジションに来た頃に、ようやく具体的な目標になりました。
−初めて五輪の代表に選ばれたときの心境や出来事について教えてください。
シドニー大会の前年の99年、初めてナショナルAチームに入りました。チームのメンバー全員が揃った最初のミーティングのとき、井村コーチ(現中国代表コーチ)が発した第一声は「死んでもらいます」でした。これはもう本当に、泣いて帰ろうかと思うくらいの衝撃でしたよ。「これからどんな練習が待っているのだろう?」とか、色んなことを考えて不安になっていた矢先に、いきなりですからね。練習では厳しい井村コーチのお陰もあって、悔いの残らない現役生活を送ることができましたが、当時はショックとしか言えない出来事でした。

−五輪の舞台では、大きなプレッシャーや「国を背負う」という意識が生まれるようですが、巽さんや他のメンバーはどうだったのでしょうか。
選手の立場からすれば、自分がこれまでに積み重ねてきたことを出し切る、集大成の場だという意識がありますから、「日本を背負って」「国を代表して」というのが全てではありません。しかし、私たちは“日本代表”として選ばれているわけですから、確かにそういう気持ちはありますよ。とくにシンクロは、柔道などと同じように“メダルを取り続けている競技”の一つですから、大きなプレッシャーがありますね。
やはり「メダルは落とせない」という気持ちは強いですよ。日本とロシアの2強時代だった私たちの頃には、銀メダルで「普通」、銅メダルなら「失敗」という風に見られましたし、新聞などでも「敗北」などとか書かれてしまいます。実際に、シドニー、アテネの2大会で銀メダルを獲得しても「ロシアに及ばなかった」と書かれたりもしましたからね。
−美しい演技の舞台裏で、相当ハードな合宿があると聞いているのですが。
練習そのものもハードで、1日に10時間くらいプールで練習をしていますが、それ以外にも色々と厳しい面があるんですよ。たとえば、五輪開催の年になると、「走るな」「自転車に乗るな」という規制が出てきます。チーム全体で、普段から「足をいかにキレイに魅せられるか」ということにもこだわっています。ですから、シンクロに必要のない余計な筋肉がつくと困るんです。それで「走るのは控えなさい」となるんです。「転んで怪我をするから」というのとは違う理由なんですよ。
“美しい足”ということでは、他にもあります。誰にでもO脚とかX脚とか、クセみたいなのがあるものですが、それをどうにかして「真っ直ぐのキレイな足」に見せようと、各自が普段の生活から努力しているんです。実際には真っ直ぐの足の人なんて滅多にいないわけですが、シンクロはまさに「見せる競技」ですから、少しでも美しく見えるように陰で努力しているんですよ。競技の前には、アザのあるような場所に“どうらん”を塗ったりもするんです(笑)。
実はアザができるのは当たり前というくらい、シンクロという競技は“危険”と隣り合わせなんです。密集して泳ぐので、足が当たったりするとすぐにアザになりますし、リフトで落ちたりするとすぐに腫れたりしますし。私もリフトで跳んだりすることもありましたが、お腹から水に落ちるときには、お腹から太ももの辺りまで内出血で紫色になったりもしましたね。
−美しさにこだわるシンクロの選手ですから、ダイエットも厳しいのでしょうね。
いえいえ、それがまったくの逆なんですよ。減量どころか増量に必死です。シンクロ選手は1日に5,000Kcalを摂取しなければなりません。それは、一般女性に必要な摂取カロリーの約2倍です。代表の合宿が行なわれる、国立スポーツ科学センターの最上階にレストランがあって、そこには食べた分のカロリーを表示してくれる機械があるんです。数あるメニューから自分の好きなものを選んで、選んだメニューのボタンを押すと、栄養データとカロリーなどが表示される仕組みになっています。選んだ分をプリントアウトしたものを見ながら、カルシウムが少ないなとか、栄養バランスが悪いとか栄養士の先生からアドバイスを受けるんです。それを見て「カロリーが足りてない」となると、無理矢理にでもおかわりをするとか、間食をするんですね。それもトレーニングの一環ですから、美味しいとかそういうことは関係ありません。とにかく、自分の血と肉になるものとして摂取するんです。それでも、1日10時間の練習で2キロ程度は減りますから、食べないと体が持ちません。食べられない場合は、おかずをミキサーにかけて泣きながら飲んだりもしましたよ。
あとは、ドリンクタイプの栄養補助食品を1日に5本くらい飲むとか。選手にとっては、食べるという行為が練習と同じくらい厳しいことなんです。シンクロは「浮力」も付けないといけませんから、とにかく足りないカロリーは自分の好きな物で摂取すれば良いんです。ケーキ、たこ焼き、チョコレート……何でもアリで、それだけが救いでした。大阪で合宿があったときには、毎日たこ焼きを食べていましたね(笑)
−練習以外の場面で苦労をされていますが、最も過酷な練習メニューはどんなものでしたか?
アテネ大会のときの特別トレーニングですね。代表チームの平均身長は167cmだったのですが、私の身長は160cmです。小柄ですから、他の選手よりも高く飛び上がる力を付けないと通用しないんですよ。それで、2キロ〜3キロの重りを付けて練習をするんですね。釣り用の小さな重りをベルトに縫い付け、それを腰に巻いて一曲を最後まで泳ぐ。できたら、それを3回繰り返すという練習ですね。それだけ重いので、必死になって水を掻いているのですが、トレーニングをすることで、より軽く、スムーズに泳げるようになり、体が高く上がるようになります。重りは実際の重量よりも重く感じるんです。何かに引っ張られているみたいな感覚もありますし、その練習が最も大変でした。

写真提供(C)巽 樹理氏
−大変な時期を一緒に過ごしたメンバーですから、友情が芽生えることもあるでしょうね。
当時のメンバーは今でも凄く仲が良いですよ。とくに、同い年の藤丸選手、米田選手は大親友ですね!2人のことは昔から知っているんです。3人とも所属クラブは違っていたんですけど、中学生くらいから同じような成績を残していたんです。本来であれば、ライバル関係にならなければいけないのに、それどころかとても仲良くなってしまいました。井村コーチからは「3馬鹿トリオ」というあだ名を付けられてしまうくらいでした。一緒に笑って、一緒に泣いて。親友でもありますし、戦友ですよね。お互いの結婚式でスピーチをしたりするような関係で、これからもずっとこの関係は続くでしょうね。
−それだけの友情を築けるのは、単に同い年ということだけが理由ではなさそうですね。
高校生のとき、3人で一緒に五輪に出場しようという約束をしたんです。しかし、シドニー大会のときは、私と米田選手の2名が選出されて、残念ながら藤丸選手は落選してしまったんです。それがあったからこそシドニー大会が終わってからの4年間、アテネ大会を目指して頑張ることが出来たんだと思います。私自身、シドニー大会で果たせなかった約束を果たしたかったですし、米田選手、藤丸選手も今度こそ夢を実現させたいという気持ちが強かったですからね。競技生活を続けるなかで、彼女たちとの約束や友情には本当に助けられたと思います。

−シドニー、アテネの2大会に出場して巽さんが得たものとは?
最初に出場したシドニー大会では、私と米田選手が最年少でした。その分だけ、たくさん迷惑をかけて、足をひっぱって、怒られて……。結果的に銀メダルを獲得できましたが、先輩やコーチに取って貰ったメダルという印象が大きかったです。「嬉しい」とか「やった!」という気持ちよりは、「ありがとうございます」という心境でした。自分の抱いてきた夢や目標としていた五輪の舞台を、このままの気持ちで降りることはできないという思いが芽生えましたし、次のアテネ大会では、自分が中心になって「メダルを勝ち取った」と思える五輪にしたいという気持ちになりました。もちろん、藤丸選手との約束も果たしたいですからね。
(左)アテネ大会銀メダル (右)シドニー大会銀メダル
そして4年後、「3人で五輪に出場したい」という夢がかなったアテネ大会は本当に嬉しかったですよ。前回のシドニー大会の直前合宿の厳しさを思い出す度に、あと何年も頑張れるかなと不安になっていたこともありました。人生の中でこんなに泳ぐことはもうないだろうとか、こんなに怒られることもないだろうとか、そういう気持ちが常につきまとっていましたからね。
それでも、何とかアテネでも代表に選ばれて、結果として銀メダルを獲得できました。アテネ大会が終わったときには、自分に対して「よくここまで到達できたな」という達成感もありましたし、周りで支えてくれていた人たちへの感謝の気持ちも沸いてきましたし、本当に後悔のない競技生活を送ってきたと実感できましたね。
アテネ大会では「自分自信の限界に到達した」という自信がありますから、一切の未練もなく引退することができました。選手としては何も思い残すことはありません。100%、やるだけのことはやったという実感がありますよ。人生でこんなに何かを「やり切った」と思えることは二度と無いだろうと思えるくらいですね。それでも「シンクロ日本代表」は、もう二度と経験したくないことでもあるんです。宝くじ「1等」の当選券を目の前におかれても、お断りですよ!それくらい現役生活というのは過酷なものなのです。そういう経験が出来たことは、もちろん良かったと思いますし、誇りに思えることです。それは間違いありません。

引退後すぐに指導者になられて、現在は母校の職員として活躍されています。巽さんのこれからの目標を教えてください。
アテネ大会で引退してからの1年間は、私が育ったスイミングスクールで、サブコーチとして子どもたちの指導をしていました。選手時代に見えていなかった色々な部分が、指導者という立場になると見えてくるんです。選手は自分のことだけで頭がいっぱいですが、コーチになると、広い視野でチーム全体を見ていかねばなりません。コーチ業というのはこんなに大変なことなんだと実感しましたね。
今でも子どもたちの指導にお邪魔することはあるのですが、本格的にコーチをやろうという考えは今のところありません。大学職員としての仕事も、年を追うごとに大きなものになってきていますからね。指導者という立場ではなく、シンクロを身近なスポーツとして感じてもらう活動や、シンクロにチャレンジしやすい環境づくりに貢献してみたいですね。シンクロは日本国内で、まだまだ一般に普及しているとは言えないレベルですからね。
現在は、大阪府内の小学校などでシンクロの紹介をする機会をいただいています。小学校のプールで簡単な振り付けを教えて、1分とか、30秒とかの短いプログラムを演じてもらうという感じですね。学校ではシンクロを教える先生はいらっしゃいませんから、先生にも生徒にも、とても新鮮な体験になっているみたいです。これからも、シンクロに親しんで貰えるような活動を、少しずつでも続けていければ良いなと思います。
〜巽樹理さんの「こんなところが関西人」〜
生まれも育ちも大阪市内で、根っからの「浪速っ子」ですから“笑い”へのこだわりは凄いですよ。
私がチームリーダーを務めていたときは、常に“絶対にすべらないネタ”を用意していました。それはもちろん、チームを
盛り上げるために(笑)用意したネタで爆笑をとると「よし!この話ウケた!」という密かな喜びがありましたね。
私の家族はそれぞれが強烈なキャラクターを持っているので、家族ネタがメインになるんですけどね。父の変わった言動などを面白おかしく話をしてあげるんです。関東出身の選手なんて、とくに大笑いしてくれたものです。
でも、それは単に「ふざけていた」ということではなくて、チームの中に“笑い”が必要な場面があったからなんです。厳しい環境だからこそ、所々で笑いを入れていことが大切ですからね。
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