【視れば揺らぐこの宇宙】第1回『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の視点

2017/07/24

WRITER吉田隆一

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【視れば揺らぐこの宇宙】第1回 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の視点

はじめまして。吉田隆一と申します。

音楽家ですが、音楽・アニメ・SFにまつわる文章を書くお仕事もしています。「ジャズ」と呼ばれる音楽の、しかし「ジャズ」という言葉から多くの方が(おそらく)連想されるモノとは、やや異なる音楽を演奏しています。なので最近は「SF音楽家」を名乗っていたりもしています。
「SF音楽家」と名乗るくらいですので、SFが大好きです。ありがたいことにSF小説の解説も書かせていただいております(谷甲州『航空宇宙軍史・完全版』全五巻『新・航空宇宙軍史 コロンビア・ゼロ』ハヤカワ文庫JA、よろしくお願いします)。
というわけで、SFやアニメにまつわる「視点」のお話に、しばしお付き合いねがいます。

映画『ブレードランナー』が映しだす「世界」

今回は、今年2017年秋に続編が公開される映画『ブレードランナー2049』の予習として、前作『ブレードランナー』……ではなく、その原作である、P.K.ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』についてのお話をします。
とはいえ、まずは『ブレードランナー』について簡単に……。

http://cinema.eonet.jp/title/detail?id=79867

映画『ブレードランナー』の公開は1982年。35年前の映画ですが、現在でも古びることのない名作の輝きを放っています。
かつては「カルト的人気を誇る」という言葉で語られることが多かった、いわば「サブカル」的文脈での評価をされてきた映画でしたが、 現在では「SF映画の古典的名作」として認識されているのではないでしょうか。実際、多くのSF映画に影響を与えています。

時代は2019年。舞台は、多くの人類が地球を離れた後のロサンゼルス。外宇宙での過酷な労働環境から地球に逃走してきた人造人間「レプリカント」を追う捜査官≒ハンター(ハリソン・フォード)が主人公です。巨大なビル郡に『強力わかもと』のCMが映し出される映像は日本人にとって印象的でした。

退廃的な映像美。未来都市の生活感。なによりアクション映画でありながら内省的な物語。こうした要素は、先に述べたようにその後のさまざまなSF映画やアニメの「源流」となっています。ですので、直接・間接を問わず、今では多くの方にとって「なじみ」のある世界観ともいえるでしょう。

では、その原作はどうでしょう。

小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が映しだす「世界」

米国の作家フィリップ・キンドレド・ディックが『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を発表したのは1968年。ベトナム戦争が泥沼化の道をたどりつつあるころです。

ディックの小説は、現在では「ニューウェーヴ(SF)」の文脈で読まれています。「ニューウェーヴ」とは、1960年代初め、英国において発生した思索的なSF創作運動です。
J.G.バラードらを筆頭とするニューウェーヴ作家たちの関心は、それまでのSFが描いた「(外)宇宙」ではなく、その宇宙を視て、思索する人間の内面にありました。バラードはそれを「内宇宙=イナースペース」と呼び、20世紀初頭の芸術運動、シュルレアリスムと結びつけたのです。
シュルレアリスムが描き出した「不条理」をSF小説という形で再び世に問いかけたニューウェーヴは、その運動と直接は関係していない作家の作品であっても、どこか共通した「感覚」を持つ作品ならばそれを読み解くための「視点」となりました。そしてディックの奇妙な「SF小説」もまた、読者がニューウェーヴの「視点」を得ることで、その理解の助けとなりました。その結果、現在では「ニューウェーヴ」を形成する一角として評価されています。

ディックの作品の多くに共通するテーマに「揺らぎ」があります。それは映画化された幾つかの作品……例えば『トータル・リコール』『スキャナー・ダークリー』などにおいても描かれています。

「自分」とは、本当に自分が「自分」と信じる存在なのか。

記憶とは信頼に足りうるものなのか。
現実とそうでないものに違いがあるのか。

……揺らぎ続け、頼りない「自分」と「世界」の関係が問われるのです。それは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』も例外ではありません。

映画と小説の差異

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』と『ブレードランナー』……共通するところは、実はさほど多くはありません。
共通する設定は、「多くの人類が宇宙に移住する未来において、地球に脱走してきた人造人間をハントする人物が主人公である」ことくらいといってもよいでしょう。

『ブレードランナー』劇中において人類が地球を離れる原因は「環境汚染から逃れるため」なのですが、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では「全面核戦争による放射能汚染から逃れるため」です。それぞれ、その発表時期における社会不安が反映されているのでしょう。
その結果、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』での都市の荒廃は『ブレードランナー』の比ではありません。宇宙に移住することのできない身分の人々は、放射能の危険におびえながら緩慢な死と向き合う日々を過ごしているのです。
核戦争の結果、人間以外のあらゆる生物種が稀少となり、「動物の飼育」こそが、地球で暮らす人々にとって精一杯のステイタスとなっています。タイトルの「電気羊」は、高額な「生きた」動物を入手できない人々の「代用品」です。
生物の気配すら感じられない世界で暮らす人々の抑鬱のために、感情をコントロールする装置「情調(ムード)オルガン」が住居に備え付けられています。人々は装置の操作により、自身の感情を(タイマー付で)「設定」するのです。
そして、両作の設定上、最大の違いは「宗教」の存在です。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』にはマーサー教という「ヴァーチャル体験を通じて離れた他者と試練の共有を行う」宗教が登場します。この宗教が象徴する「共感」というモチーフこそが『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という作品の軸となっています。

生命と非生命の差異

人類にとって古典的かつ根幹的な問いかけの一つに「生命と非生命の差異」があります。構造だけみれば生物とは「有機材料でできた精巧な機械」とも解釈できます。古来、人々は「魂」という不可視の要素がそこにあることを仮定し、生物と機械を隔ててきました。しかし科学の進歩は少しずつ「魂」の存在を脅かします。

チェコの作家カレル・チャペックが自身の戯曲において、労働力としての人造人間を「ロボット」と名づけた1920年代から、生命の「境界」に関するSFでの思索が始まったと考えてよいでしょう。
……ここからSFにおけるロボット史を書き連ねていきますと、それだけで本稿が終わってしまうのでそれはまた別の機会に。
……というわけで簡単に述べますと、初期の「非生命による造反」という「フランケンシュタインの怪物」以来の古典的テーマから、1950年代以降には、社会倫理の中にロボットの居場所を探るテーマへと移行していきます(例えば『鉄腕アトム』もその流れの中にあるといってよいでしょう)。
その時期のSFにおいても「生命体と非生命体の差異」として、多くはその身体構造や、抽象的には「人間的な心」を持つか否かという、具体抽象問わずシンプルな「境界」があるように描かれていました。
では『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 作中での「生命体と非生命体の差異」はどのように描かれているでしょうか。それまでのSFにおいて「非生命」側が具える特徴によって設定されていたシンプルな「境界」が失われています。先に述べたニューウェーヴの特徴たる「内宇宙」の問題、すなわち「人間の内面の問題」として扱われているのです。

本作において(ディック作品の特徴のひとつである)「揺らぎ」を生むのは、人間と見た目が変わらない(『ブレードランナー』ではレプリカントと呼称される)アンドロイドたちの存在です。
本来アンドロイドとは、さまざまな意味で人間に似たロボットを指す呼称です。作中に登場するアンドロイドは有機体であり、知性を持ち、人間と区別がつきません。そのため人間とアンドロイドを見分ける方法として登場するのが「感情移入≒共感」を計るテスト、フォークト・カンプフ検査です。しかし「アンドロイドは他の生物に対し『共感』ができない」というこの前提が、人間の内面において「揺らぎ」ます。

例えば、アンドロイドの死に「感情移入」できない人間は、果たして他の存在(≒生物)に「共感」していると言えるのでしょうか? であれば(たとえフォークト・カンプフ検査での峻別が可能であっても)人間とアンドロイドの差異は「人間の主観」においては見出せないことになります。いわばアンドロイドの存在により、人間のアイデンティティが「揺らぐ」のです。そしてこの感覚こそ、思弁小説=スペキュレイティヴ・フィクション=SFと呼称されるニューウェーヴの文脈で本作が語られる所以なのです。

「揺らぐ世界」と「信頼できない語り手」

本作では、内面の「揺らぎ」の描写の前に、さらに具体的な「揺らぎ」が描かれます。ディックは、主人公であるデッカードが「法執行機関に所属している人間」という、いわば登場人物と読者の共通認識に揺さぶりをかけるのです。
物語の中盤、デッカードは「ターゲットによる警察への通報」という思いも寄らない反撃手法により「警察署」に連行されます。そこでデッカードに対面した警官たちは、彼が所属しているはずの司法本部が実際には存在しないと告げます。警官たちは彼が用いる「フォークト・カンプフ検査」の存在も知りません。そしてこれをきっかけに彼が信じてきた「世界」が(彼の内面において)徐々に揺らいでいきます。彼は自身に問いかけます。

「自分は本当に『自分』なのか。『人間』なのか」
……そして彼同様に読者も混乱に陥れられます。

こうした作劇手法は「読書によるメタ体験」を読者に与えます。読者が「物語の前提」として受け入れていた主人公のアイデンティティが、読者の意識の中で「揺らぐ」のです。ディックは他の作品でもこうした「物語の視点」を利用したメタな「罠」を読者に仕掛けています。そして結果として「人間が自分自身で自己を規定することは不可能である」と、読者に実感させるのです。

ミステリでは「信頼できない語り手」という、いわばトリックとして用いられる手法ですが、ディック作品の場合は、たとえその事態にとりあえずの「解決」があっても、心理的な大きな「謎」が解決することがありません。あらゆる問いかけは宙に浮き、登場人物も読者も、自身に対する不安感だけが増していくのです。

物語の冒頭、デッカードが「動物の飼育」にこだわることと、アンドロイドに対する共感の無さにより「アンドロイドを殺す」という仕事を遂行できる心理が、いわば同一軸線上の対極にあることが示されます。その象徴が「電気羊」です。飼育していた本物の羊を不注意によって死なせてしまったデッカードは、代用品である電気羊を飼育しながら、本物の動物を(高価であるため)飼育できない不満を日々募らせていました。それは非生物と生物の境界を意識し続ける行為に他なりません。その境界が揺らぐことにより、物語は奇妙ともいえる静かな、宗教的な帰結を迎えるのです。

映画『ブレードランナー』では、本来そうした「人間自身の揺らぎ」は物語に用意されてはいませんでした。しかし脚本の混乱による偶然により、結果的に「揺らぎ」が発生しています。その結果、作品の奥行きが増し、ニューウェーヴの文脈にも繋がる映画となった、とも言えるでしょう。
『ブレードランナー2049』を観る前に、是非『ブレードランナー』と『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、ふたつの「揺らぐ視点」を体験してください。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は現在、ハヤカワ文庫SF(浅倉久志:訳)で入手可能です。

次回は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を含むニューウェーヴが提示した「視点」が現代のマンガ作品に及ぼした影響について、お話したいと考えております。

引き続きよろしくお願いいたします。

連載一覧はこちら

電気羊は見たこと無いけど関西弁をしゃべる青い鳥は知ってる

なるほど

  • 作品概要

    『ブレードランナー 2049』

    監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
    製作総指揮:リドリー・スコット
    出演:ライアン・ゴズリング/ハリソン・フォード/ロビン・ライト/
    ジャレッド・レトー/アナ・デ・アルマス/シルヴィア・フークス/カーラ・ジュリ/マッケンジー・デイヴィス/バーカッド・アブディ/デイヴ・バウティスタ
    製作:2017年/アメリカ
    配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
    公開:2017年10月27日(金)より全国にて公開
    公式サイト:http://www.bladerunner2049.jp/
    eo映画:http://cinema.eonet.jp/title/detail?id=79867

  • 吉田隆一さん
  • WRITER

    吉田隆一(よしだりゅういち)

    1971年、東京生まれ。バリトンサックス奏者。”SF+フリージャズ”トリオ『blacksheep』などで活動。アニメ、SFに造詣が深く、雑誌やミニコミ誌等に論考やレビューを発表している。最新アルバムはblacksheep『+ -Beast-』(VELVETSUN PRODUCTS)

    Ryuichi Yoshida Official Web:http://yoshidaryuichi.com/

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