8時限目:《下地車(岸和田型だんじり)の話》

動画有り

第一章: 『上地車』『下地車』という分け方

『だんじりセミナー』という名前でシリーズコラムを書き進めていくなら、本来もっと早い段階で出すべきだったのが、今回のテーマです。

それは、だんじりの『型分け』について。

基本的には『岸和田だんじり祭』をメインに展開している当サイトですが、筆者が世間一般に発信するメッセージは常に、

『だんじりは岸和田だけではない。地域によって様々な形のだんじりがあり、祭のやり方にも違いがあり、そのすべてに魅力がある。』

というものなので、だんじりの事を学んでゆく上で、地域によって様々な違いがある『型分け』というものを、避けて通ることは不可能なのです。
その型分けとは、大きく分けて二通り。

『上地車(かみだんじり)』
『下地車(しもだんじり)』

という分け方です。

これが一応、当サイトでいうだんじりの型分けの基本の基本と位置づけます。

地域を問わず、形式を問わず、様々なだんじりを見てゆく上で、この『上地車』『下地車』という呼び方は必ずついて回るもので、知らねば話にならない場合も多くあります。
また、多くの『だんじり好き』にとっては当たり前の様に浸透している事でもあり、それら『だんじり好き』の間では言うまでもないのですが、だんじりにあまり詳しくない人達にとっては、広く知られてはいない呼び方でもあります。

それ故、『セミナー』と名が付くコーナーである以上、この解説は必ずやっておかねばなりません。

だんじりに興味はある、或いはだんじりが好き。でも詳しくは知らないという、多くの人達に向けて、今回のセミナーを開講してゆきたいと思います。

このサイトでは、『だんじり』はひらがな表記で『だんじり』と書いていますが、一般的な漢字表記では『地車』と書いて『だんじり』と読んでいます。
当サイトではひらがな表記で『だんじり』と書く以上、本来なら『上だんじり』『下だんじり』と書くべきなのですが、この型分け表記については『上地車』『下地車』と表記させていただきます。

さて前置きが長くなりましたが、この『上地車』と『下地車』の違いはというと、大まかに言うと、『下地車』は『岸和田型』で、それ以外はすべて『上地車』であります。

言葉による説明より、写真で見比べた方が一目瞭然でしょう。

岸和田型イコール『下地車』
それ以外はすべて『上地車』

そして、『下地車』が『岸和田型』1種類のみであるのに対して、『上地車』は地域によってもっと細かに型分けがされます。
つまり、『大阪型』も『神戸型』も『石川型』も『北河内型』も、ぜーーんぶ『上地車』です。

上地車のひとつ『石川型』
代表的な上地車『大阪型』

その事についての詳しくは次回、『上地車の話』のところでもっと掘り下げますが、この回ではそんな感じで頭に留め置いていただければ幸いです。

では『岸和田型』のみであるとされる『下地車』とは、何なのでしょうか?

そして、そもそも『上地車』『下地車』という呼び方は、どの様に発生したのでしょうか?

昭和の40年代の頃から、だんじりそのものを研究する人達が出て来ました。
今現在、筆者も含めて多くの『だんじり愛好家』はだんじりについて学習するための資料に恵まれていますが、まだそんなものが無かった時代、それらだんじり研究の元祖というか、最初の『礎』を築いた人達の存在です。

その当時のだんじり研究家、愛好家の間で、『岸和田型』のだんじりと、明らかに形の違うそれ以外のだんじりを、その分布と照らし合わせてみた場合、その当時は忠岡町と泉大津市を分ける『大津川』によって分かれている事が分かりました。

つまり泉佐野から忠岡までは『岸和田型』のだんじりしか存在していないのに対し、大津川を渡って泉大津に入ったところから、『岸和田型』ではない形のだんじりが存在しており、その分布は広く大阪市内や河内地方、さらに兵庫県まで広がっているのでした。

大津川の南側の忠岡は『下地車』
大津川の北側の泉大津は『上地車』

ちなみに、大津川は上流の方で松尾川と槇尾川とが合流して大津川となるのですが、その流域は『上地車』と『下地車』の混在地域であった様です。
現在でいう泉大津市の『穴師地区』、和泉市の『府中地区』、『郷荘地区』、そして『松尾地区』です。

赤線・大津川、水色線・槇尾川

しかし大津川より南は100%『岸和田型』である事も踏まえてその分布の色分けは明確であり、この大津川を境にして、都に近い北側を『上(かみ)』、南側を『下(しも)』と呼び、北側のだんじりを『上地車』、南側のだんじりを『下地車』と呼ぶ様になったといわれています。

つまり、この呼び方は元々は『便宜上』の呼び方であったのですが、非常に的を射抜いた表現であり、現在ではだんじりを製作する大工さんや彫師さんをはじめ、だんじりに関わるあらゆる人達の間でこの呼び方が浸透してゆき、今ではだんじり本体を語る上では欠かせない表現となりました。

故に、だんじりを見る上での基本中の基本として・・・

『上地車』『下地車』という分け方・呼び名があり、『下地車』とは『岸和田型』オンリーの事であり、それ以外を『上地車』と呼び、元々の棲み分けは大津川が境目であった・・・

という事が、大前提となります。

だんじり初心者さんに向けたセミナーとしては、
『はい、この条文は丸暗記して下さい。テストに出ます!』
と言えるぐらいの事柄です。

その上で、今回はまず『下地車』、すなわち『岸和田型』のだんじりについて、難しくない程度に掘り下げてみたいと思います。

第二章:『下地車』は『上地車』の発展形

今現在、『下地車』がどれぐらいの地域に存在しているかを、ちょっと見てみたいと思います。

元より、大津川より南側の地域である忠岡町、岸和田市、貝塚市、泉佐野市、熊取町、田尻町のだんじりは、すべからく『下地車』すなわち『岸和田型』でした。

阪南市から南は『だんじり』ではなく、二輪車の『やぐら』の地域となります。

阪南市の『やぐら』

泉佐野市の南部である大木地区に、コマのない『担いだんじり』が存在していますが、ここでは一旦含めない事として、大阪府最南端のだんじりは、泉佐野市の上之郷地区であります。

大阪府最南端に位置する泉佐野市・上之郷中村のだんじり

歴史を振り返ると、例外的に『上地車』が一時的に存在した村もあった様ですが、非常に微々たる事象ですので、ここでは、大津川以南の泉州地方は、『下地車』100%と申し上げておきます。

さて、かつては大津川から北側の地域で『下地車』といえば、泉大津市の穴師地区や助松、そして槇尾の流域である和泉市の府中、郷荘、それに松尾の一部などの地域までで、そこからはほぼ『上地車』の地域だったのですが・・・

昭和の終わりから平成にかけて堺市内を中心に起こった『祭礼の岸和田化』により、『下地車』の生息地は石津川のすぐ南まで広がりました。
つまり、堺市を含む泉州地方のだんじりは、ほぼほぼ『下地車』で埋め尽くされたと言っても過言ではないでしょう。

堺市内で曳かれる『下地車』

大津川から北側の泉州地方に於いて、地区として『上地車』の祭礼を守り通しているのは泉大津市の『濱八町』と、堺市の『陶器地区』ぐらいといえます。
『陶器地区』は堺市内ではありますが、泉州というより、どちらかといえば南河内の色が濃い地域です。
あと町単位・村単位で『上地車』で祭礼を行なっている所が点在していますが、陶器地区を除いた堺市と高石市を合わせて20台に届かず、非常に希少な存在となっています。
それとて次にだんじりを新調するとなれば『下地車』を新調する可能性があり、もはや『絶滅危惧種』と呼んでも差し支えなさそうな感じさえします。

堺市内に残る『上地車』

さて、そんな『下地車』いわゆる『岸和田型』のだんじりですが、姿見は『上地車』とは一目瞭然で何もかも違うといった印象さえ感じます。

『上地車』は地域によって細かい部分で違いがあり、それによって多くの『型分け』がされていますが、それにも増して、素人目に見ても明らかに1台1台の個性が違うというか、表情が違います。
そうした『上地車』の中で、例外もありますがだいたい共通しているのは『獅噛み』『通し柱』『飾り金具』といったところでしょうか?

獅噛み・通し柱・飾り金具

対して『下地車』は、化粧飾りを全て外した裸の状態で見比べると、その姿形は総じてよく似ているというのが特徴として挙げられます。

化粧飾りのない『下地車』

細かくいえば大きさはもちろん、屋根の形状も枡組の組み方も違うし、彫られている彫物も違うんですが、一見すると見分けがつきにくいというのは、まぁ言えてるかも知れません。

筆者を含む多くの『だんじり愛好家』は、『上地車』『下地車』の分け隔てなく両方とも好きであり、それぞれの魅力に応じて楽しむ事をモットーとしていますが、普通、生まれ育った地域のだんじりと違っていたら、その違いを魅力と思いにくい事もしばしばあるものです。

『上地車』の地域に生まれ育ち、『上地車』に馴れ親しんだ人は『下地車』を見てもあまり馴染まないという人は大多数いるし、その逆もまた然りであり、それはそれで致し方のないところでしょう。

『わしらよー、昔っから我がトコのだんじりしか見て来てへんさかいに、上地車見てもなー、だんじりっちゅー感じせーへんねん・・・』
という人達も居れば、
『岸和田のだんじりなんかどれ見ても皆んな一緒やん。だんじりっていう感じせーへん・・・』
という人達も居ます。

でもそれは居て当たり前。
人の好みは人それぞれ。
その上で、僕ら愛好家はそれぞれの魅力を知り、実際に魅了されているので、少しでもその『良さ』を表現出来れば、誰かに伝わるんじゃないかと思って、長い文章を書き綴るのであります。

誰かの興味を掻き立てる事が出来ればと思ってね・・・

さて、そんな『下地車』ですが、その構造は『上地車』に比べて複雑であり、なおかつ彫物の密度も濃いというのが特徴です。

『上地車』との大きな違いとして、大屋根と小屋根の段差が大きい事が挙げられ、その屋根の形状は『上地車』に比べて平坦で、両側の軒先は水平である事が求められます。
大屋根の下の枡組は七段から九段ほど積み上げられ、この枡組のボリューム感が『上地車』との大きな違いのひとつ。

その枡組を支える四本柱は丸柱で、勾欄の下には四段に組まれた腰廻りがどっしりとした印象を与え、彫物で埋め尽くされています。
そしてその下は肉厚な台木によってすべてが受け止められています。

小屋根の側に目を移せば、大屋根より段数の少ない枡組の下には、『見送り』と呼ばれるパノラマ状の部分があり、ここには立体空間的に彫物が配置される構造。

これらの特徴はすべての『下地車』に共通しているものであって(腰廻り三段のだんじりもあるが)、『上地車』とは一線を画すものであります。

しかし、これほど複雑な構造のだんじりが、いきなり忽然と生まれて来る事はありません。
そう、『下地車』が生まれてくる過程には、岸和田だんじり祭の歴史が深く関わっているのです。

ではそれを少し掘り下げてみましょう。

岸和田だんじり祭の発祥は現在諸説ありますが、昔から言われているのは元禄16年(1703年)、時の岸和田藩主・岡部長泰公が、京都の伏見稲荷を三の丸に勧請して行われた稲荷祭がその起源とされています。
その時に、城内を開放して町民にも参拝を許したところ、町民が簡単な箱車に囃子を乗せて城入りし、城主の前で『俄』を演じて見せた事が、のちの『岸和田だんじり祭』へと発展してゆくというものです。

この時に岸和田の町衆が曳いていたのは、まだ『だんじり』とも言えない様な、『長持』に車を付けた様な箱車。

同じ時代、大坂浪花に目を移してみれば、『天神祭』が行われていたのは確かでありますが、果たして『だんじり』と呼べるものは出ていたのでしょうか?
安永9年(1780年)には天神祭に84台ものだんじりが夜を徹して宮入りしていたという記録は残っているものの、それ以前の記録が残ってないのが実情なのですが、民衆文化が栄え始めた元禄時代、『天下の台所』として栄えていた大阪の天満に、『だんじり』という祭礼文化が根付いていた事は、十分考えられる事です。

江戸時代の天神祭における『だんじり曳き』の様子

またもうひとつの説として、南蛮貿易で財を成す堺では、大坂の天満よりも早くだんじりを建造していたとも言われており、『だんじり』という曳き廻す車とその呼び名は、岸和田でも認知されていたと考えて良いのかも知れません。

いずれにせよ江戸時代の中期から後期にかけて、大坂や堺のだんじりが共通して『上地車』であったのに比べて、岸和田では独特の形状をした『岸和田型』のだんじりが誕生するのですが、これには岸和田独自の発展の歴史があります。

天明5年(1785年)、北町の油屋治兵衛が、泉大津より彫物のたくさんついた、当時としては大変大型のだんじりを買い受け、町に寄贈します。
しかし、あまりの大きさにお城の門をくぐれないと分かり、大工たちが慌てて柱を切り縮め、屋根を低くして城門をくぐったとされています。
この時に油屋治兵衛が購入しただんじりというのが、のちの『岸和田型』だんじりの原形となってゆくのですが、この時のだんじりは、おそらく『上地車』であったと推察されます。

こんな感じのイメージ?

そして、この『上地車』をベースに、岸和田の大工たちの創意工夫が始まってゆくのです。

もとより岸和田城下には、初代岸和田城主・岡部宣勝入城の時代から代々腕利きの大工たちが多数居住しており、数々の神社仏閣を手がけていたといわれています。

そうした腕利きの大工たちによる、『だんじり作り』という苦心と試行錯誤の戦いであります。

大きくて格好の良いだんじりは持ちたいが、お殿様の前で『俄』を披露して褒美を頂戴するには、お城の門をくぐれなければならない。
そのためには、お城の門をくぐる時だけ、屋根を下げなければならない。
『岸和田型』のだんじりが、『上地車』と決定的に道を分けて発展してゆくのは、正にこの命題を克服するためだったのです。

第三章:『カラクリ』がもたらした『下地車』の独自構造

天明5年の翌年、北町は独自にだんじりを新調します。
それは、岸和田独自のだんじりを考案するための、大工たちの研究と試行錯誤の始まりであったかも知れません。

現在も各地に存在する『上地車』の構造は、基本的に共通しています。
それは、台から屋根までが『通し柱』である事です。

通し柱の構造

岸和田の大工たちが目を付けたのは、正にそこでした。

通し柱のままでは、屋根を自由に上げ下げする事が出来ません。
屋根を下げるためには、柱を二重構造にして、上半分を可動式にする必要がありました。

そこで考え出されたのが、『抱き柱』方式。

抱き柱の構造

台から腰まで太くて四角い『筒柱』を建てて、その筒柱の内側に細い丸い柱を抱かせて、普段は抜き差し可能な『栓』で固定しておいて、その『栓』を抜くと内側の柱が可動する。

可動する丸柱を固定する『栓』

この方式によって、大屋根を上げ下げできる構造が出来あがりました。
この可動する柱の上に大屋根を乗せれば良いのですが、台から腰まで建てられた『筒柱』の内側に抱かれている『丸柱』は、『柱間口』が狭くなるので、そのままでは幅のある大きな屋根を受ける事が出来ません。
そこで、枡組を何段にも積み上げて、上へいくほど桝を外側へ出す事で桁の幅を広げて、大きな屋根を載せる事を可能にしたのです。

柱間口が狭い分、枡組を介して大きな屋根を受ける

そして、筒柱と丸柱の境目を隠すために、筒柱の三方を箱状に覆う形を採りました。

箱状の腰廻りで筒柱を隠す

これが現在もメインの彫物を施す『腰廻り』の構造を生み出します。
今現在は『縁葛』『大連子』『小連子』『土呂幕』という四段に分けられていますが、初期の頃は縁葛の下がすぐ土呂幕であったと推察されます。

今現在、『岸和田だんじり会館』に保存展示されている、現存する岸和田最古のだんじりを見れば、その様子が窺い知る事が出来ます。

だんじり会館に展示されている岸和田最古のだんじり

またこうした『箱状の腰廻り』を持った事で、『上地車』に標準装備されている『担い棒』を持たない構造も確立されたのであります。

さてこれで、大屋根を上げ下げさせる構造は出来ましたが、大屋根を下げて来ると、小屋根の存在がそれを妨げるという事が発生します。

小屋根をどうするか・・・

これは、『岸和田型』のだんじりを開発してゆく上で、屋根がひとつだけの『一枚屋根』のものであったなら、大屋根の上げ下げが可能なだけの山車を開発すれば良かったのですが、そこはやっぱり『だんじり』なのです。
当時から大坂の天満や堺で曳行されていた『だんじり』は現在と同じく、大屋根と小屋根が中柱で組み合わさる構造のものが主流だったのでしょう。

大屋根と小屋根があってはじめて『だんじり』

そう、岸和田の大工たちが試行錯誤と苦心を重ねて開発しているものは、『だんじり』とは全く別物の『山車』や『曳山』ではなく、れっきとした『だんじり』だったのであります。
なので、大屋根と小屋根が重なり合う構造は譲れない。
しかし、大屋根を上げ下げさせるとなると小屋根がそれを妨げる・・・

そこで!

『小屋根を後ろへ下げればええんや』

それが現在も『岸和田型』のだんじりに残る『摺出し鼻』であります。

摺出し鼻

当時の『岸和田型』だんじりの見送り部分は現在の様なパノラマ式になっておらず、『上地車』の『三枚板』の様な形状であったと思われますが、問題はその上部。
小屋根と枡組をそのまま後ろへスライドさせる『レール』を作り、そろばん玉の様なコマで前後に可動出来る様にします。
そこから小屋根と枡組を後ろへ引き出せる様に、電車の線路でいう『引き込み線』の様なものを出します。

まさにレールの役割

小屋根が後ろへ摺り出して来るから、まさに『摺出し鼻』であります。
そして、小屋根を後ろへスライドさせる形式を採用したために、小屋根が中柱に組み込まれる事を避けました。
このため、『岸和田型』のだんじりは前半分と後ろ半分とが、建物としては別物という独特の構造が生まれたのです。

前と後ろは別の建物

お城の門をくぐらせるために、小屋根が前後に移動し、大屋根は上下に可動する。
この二つの動作を実現させるために、『岸和田型』のだんじりは従来の『上地車』とは大きく異なった性質を持つに至ったのです。

こうして、岸和田の大工たちの創意工夫と試行錯誤によって、『岸和田型』だんじりの『礎』が出来あがりました。
岸和田の大工たちは、まったく別物の『山車』や『曳山』ではなく、あくまでも『だんじり』として、大屋根・小屋根の構造を崩す事なく、それでいてお城の門をくぐれる細工を施した、誠に精巧な『カラクリだんじり』を生み出したのであります。

岸和田の大工たちの苦心の賜物

これが1785年から後の年代であった事を考えると、1800年代に入るまでには、この『岸和田型カラクリだんじり』の形が整って来ていたと推察できます。
そして1800年代に入ると、現在『だんじり会館』にて展示されている岸和田最古のだんじりや、現存する中町の先代(現・橋本市東家)や、紙屋町の先代(だんじり会館展示)など、今も目にする事が出来るだんじりへと繋がってゆくのであります。

第四章:彫物で埋め尽くせ!

『岸和田型』のだんじりといえばその姿見の美しさに加えて、精巧な彫物も大きな魅力となっています。
この彫物も、『上地車』に施されている彫物とは少し性質が違っています。

『上地車』の彫物は、総じて『大振り』であります。
むしろその事が『上地車』の彫物としての個性であり、『岸和田型』にはない魅力であります。

上地車は『型にハマらない』ところが魅力

対して『岸和田型』の彫物は細やかであり、さらにその質量においては『上地車』を圧倒しています。

前の章でお話した1700年代終盤、岸和田の大工たちによって『岸和田型』だんじりの開発の際、彫物の事も同時進行で進められていたと思われます。

『だんじり会館』に展示されている岸和田最古のだんじりは1800年代初頭に製作されたものとされていますが、それを見ながら推察するに、まず大工が彫師に託したのは、

『見えている柱以外は、すべて彫物で埋め尽くしてくれ!』

という事ではなかったでしょうか?

そこで重要視されたのが、筒柱を覆い隠す箱型の腰廻り。
『上地車』の場合、鳴物の人が乗り込む『座』がもう少し低いのに対し、『岸和田型』のだんじりは筒柱が丸柱を抱いている分、腰高な構造になっています。

『だんじり会館』に展示されている最古のだんじりは『上地車』の面影がよく残っていて、『縁葛』の下がすぐ『土呂幕』になっていて、『土呂幕』と台木との間の『水板』は現在の岸和田型だんじりよりも大きく取られています。
そして土呂幕を囲む様に疑宝珠勾欄が取り付けられています。
まずはこの『土呂幕』に大きな彫物を彫り込む必要があり、その下の『水板』にも、今現在のだんじりより精巧な彫物が彫られています。

そして見送り部分も現在の様なパノラマ式ではなく、『上地車』の三枚板の面影があり、その見送り部分も疑宝珠勾欄がめぐらされています。

現在の『大脇』と呼ばれる部材は、この岸和田最古のだんじりにはまだありませんが、天保12年(1841年)に製作された紙屋町の先代だんじりの場合は、小屋根を支える見送りの柱部分から斜め45度に『兜桁』が出ており、その下は柱が支えています。

やがてその柱の部分までをひとつの彫物としたのが、のちの『大脇』となります。
『大脇』は『上地車』でいうところの『隅障子』であり、彫物としては目を引く部材です。

また屋根廻りに目を写せば、『枡合』に彫物を施す他に、枡組の先端ひとつひとつに龍、獅子、牡丹などの彫物を施し、いわゆる『尾垂木』とします。
これにより、屋根廻りのボリュームがものすごい事となり、『岸和田型』だんじりの姿見を印象づける、強烈な存在感となって定着します。

1800年代中頃になると、腰廻りに大きな変化がもたらされています。
『縁葛』の下に『連子』と呼ばれる部材が組み込まれ、土呂幕がもう少し下に下げられ、水板の存在感が薄くなっています。

中町の先代だんじりはむしろ水板がない

この『連子』はやがて二つに分かれて、『大連子』『小連子』となります。
明治の頃には縁葛の下に小連子、その下に大連子、一番下に土呂幕という配置で、上から下にかけて寸法が大きくなっていく配置だったのが、明治の後半から大正にかけては、小連子と大連子がひっくり返り、縁葛の下に大連子が配置され、これにより腰廻り四段の彫物の見栄えが格段に進化する事となります。

大正頃には大連子が上で小連子が下という配置が定着

この『腰廻り』に組み込まれる彫物は『板彫り』と呼ばれるもので、長方形の長い板にひとつの場面を彫り込んでゆくもの。
だんじり彫刻の場合、『上地車』も『下地車』もこの『板彫り』が最もポピュラーな部材であり、『上地車』の場合は虹梁や土呂幕、見送り三枚板などに用いられ、『下地車』ではこの腰廻り四段の他に、枡合や見送り下などにも用いられます。

彫物に彫り込まれる題材は、腰廻りをはじめ枡合、見送りなど、大部分は『人物もの』が占めます。
『上地車』の場合、それぞれの部材に『人物もの』も『花鳥物』も混在していて、型が決められていないのに対して、『岸和田型』のだんじりは部材ごとに用いられる題材はだいたい共通点があって、例えば土呂幕などの腰廻りや見送りなどに『花鳥物』が用いられる事はまずありません。

『岸和田型』のだんじりを埋め尽くす彫物のメインは、『人物もの』であり、その多くは『合戦物』であります。
しかし、岸和田の大工たちが苦心して『岸和田型』だんじりを創り上げた江戸時代、彫物の題材は徳川幕府に届け出る必要があり、徳川家の敵となった豊臣方を題材にしたものは許可されませんでした。

それにより、だんじり会館に展示されてある最古のだんじりも、中町や紙屋町の先代も、『中国物』の彫物が目立ちます。

中国物の彫物

それが明治維新以降、徳川幕府の縛りがなくなったことで、だんじりに彫り込まれる題材は自由に選べる時代となりました。
この江戸時代から明治にかけて、『岸和田型』のだんじりの彫物に腕を振るった一門で代表的なものが《花岡》一門であり、また和泉彫の《高松》一門であり、そして堺の《彫又》一門もそうした時代を支えた一門と言えるでしょう。

以前、『だんじり作り』や『彫物』の項でも触れましたが、明治の後半、大阪や堺で途絶えてしまった『だんじり作り』も岸和田では途絶える事はありませんでした。

堺の様な警察からの禁止や大阪での時代の変革など、途絶えてしまう要因を回避できた事も大きいと思いますが、そこはやっぱり岸和田の人々の『だんじりを愛する気持ち』と、『祭がなければ生きていけない』という思いが、そうした時代の波に打ち勝ったのではないでしょうか?

いくら腕利きの大工と名門の彫師がいたところで、だんじり新調の需要がなければ、そこに仕事は発生しません。
堺や大阪では『だんじり』という祭礼文化が廃れていった明治・大正の時代にあって、岸和田は『だんじり』が必要不可欠である事を貫いたのでありましょう。

そうした要因があって、幕末から明治にかけて岸和田で『だんじり作り』をしてきた大工の系譜は、大正から昭和にかけても途絶える事なく、それぞれが現在の岸和田でだんじりを製作する各工務店に引き継がれています。

そして彫師の系譜は《和泉彫》の高松一門に加え、大正時代に入ると関東や播州から名匠が合流し、一大新調ブームを支える事となります。
そこから先は『彫物』の項でも触れた通りなので割愛しますが、こうして『岸和田型』だんじりは、平成・令和の時代も新調され続けているのであります。

第六章:『下地車』が求められた理由

明治29年に起こった『堺だんじり騒動』によって、堺の旧市内ではだんじり祭が一切禁止とされ、それまで曳かれていた堺および住吉近辺のだんじりは、次々と廃絶していきました。

解体や焼却を免れただんじりは他所へと売却され、現在堺市内に編入されている鳳や泉北などその周辺地域、または河内や兵庫や奈良など、様々な方面に散っていきました。

その後、堺の旧市内や百舌鳥近辺までの地域は『布団太鼓』に鞍替えし、現在も『布団太鼓』による祭礼が行われています。
住吉大社周辺地域はその後、だんじりも何も復活せず、かつてはこの地域にだんじりがあった事すら知らない住民がほとんどという状態です。

さて、そうした鳳や泉北など、明治期までに堺や住吉で製作されただんじりが売却された地域では、昭和の高度経済成長期まで、『上地車』による祭礼が行われて来ました。
しかし昭和30年代から40年代にかけて、それらの地域の都市化や村社会の崩壊、祭礼組織の維持困難などにより、次々とだんじりを手放すに至りました。

この高度経済成長期に伴う『だんじり下火の時代』は、何も堺や泉北に限った事ではなく、大阪市内も河内も兵庫県も、ほぼ全域がそういう時代でした。
それでも、岸和田ではだんじり祭は途絶えずに続けられていたし、岸和田周辺の各地区でも祭礼は続けられていました。
大阪市内などでも、細々ながらも祭礼を途絶えさせなかった地域は、今現在もそれを感じさせるだけの祭礼が行われています。

しかし、多くのだんじりが曳行を休止し、小屋に仕舞われていた時代は、さすがにだんじりを製作する工務店や彫師にとっても厳しい時代であった事は間違いないでしょう。
そんな冬の時代を経て、昭和50年代を前に再びだんじりが脚光を浴びる様になったのです。
それは岸和田のだんじり祭が、全国ネットのテレビに紹介された事がひとつのきっかけでした。

テレビのニュースで岸和田のだんじり祭が取り上げられる事で、まずは岸和田から、だんじりの修理が次々と行われる様になります。
それに影響されてか、祭が下火になっていた堺市内や泉北などの地域でも、再び『だんじり熱』に火がつき始めました。

昭和50年代に入り、ポツ、ポツと新しいだんじりも製作され始めたそんな中、堺市の堀上町が『岸和田型』のだんじりを新調します。

これが時代の扉を開いた形となり、その後は堺市内の各地区で『岸和田型』のだんじりが新調される様になります。

但し、堀上町とて何のバッグボーンもなしにいきなり『岸和田型』を新調した訳ではありません。

実は堺市内には、昭和の初め頃から1台だけ『下地車』が存在していました。
鳳地区の大鳥区です。
しかし当時はまだ周囲には受け入れられず、大鳥区も『上地車』風にアレンジして曳いていました。
昭和40年代に入り、同じく鳳地区の長承寺が『下地車』を購入します。
この時代はすでに堺市内でも『下地車』への抵抗感も薄れ、さらに岸和田祭が知名度を上げる時期でした。

鳳地区をはじめ堺市内、および泉北地域のだんじりの曳行方法は、遣り廻しこそ岸和田ほど盛んではなかったにせよ、鳴物や曳き方など岸和田に似通っており、堀上町に限らず、『今度だんじりを新調するなら岸和田型を・・・』という思いは、割と色んな町が水面下で持っていたのではないでしょうか?

なので昭和50年代に入って、堀上町の後を追随する様に『岸和田型』の新調や購入が続いたのでしょう。

そのまま時代は平成に突入し、堺市内や泉北を中心に巻き起こった『平成のだんじり新調ブーム』は、岸和田をはじめ泉州全域へと瞬く間に広がりを見せ、令和を迎えた今現在も、その動きは止まっていません。

堺市内で新調された『岸和田型』だんじり

特に著しかったのは、それまで『上地車』を所有していた地域の『岸和田化』。
すなわち『上地車』から『下地車』へのモデルチェンジでした。

当初、大津川を境に形態の違っていただんじり分布は、それまで『上地車』を所有していた大津川から北側の地域へ『岸和田型』のだんじりが一気に広がってゆき、今や堺市の中程を流れる石津川までその分布を広げました。

その理由はおそらく簡単。

岸和田だんじり祭が有名になった事で、岸和田が行なっている『遣り廻し』を中心とした、勇壮に走り抜ける祭への『憧れ』でありましょう。
もとより堺や泉北のだんじりの曳き方や鳴物は、岸和田に類似していたのですから、その曳き方をもっと発展させ、ちゃんとした『遣り廻し』が出来る祭を目指すなら、『岸和田型』の方がふさわしかったのであります。

なので、それまでの『上地車』を売却し、新調できるだけの財力を得た町は『岸和田型』だんじりを新調した他、岸和田市内や貝塚市内など、それまで『岸和田型』で祭礼を行なっていた地域もまただんじりを新調した事で、大正から昭和にかけて製作された多くの『岸和田型』だんじりが、そうした堺市内や泉北などの地域に売却されていきました。

堺市内で曳かれる元・岸和田旧市のだんじり

そうして大津川から北側の地域では、急速な『岸和田化』が進み、各地区で遣り廻しをメインとした祭礼へと変革させていったのです。

そうした中でも、すべての地域がそうだった訳ではありません。
『上地車』の伝統を重んじる地域はたくさんあったし、遣り廻しに適した『上地車』という意味も込めて、岸和田型の様な枡組を持ち、台幅が広くて安定性を持たせた、いわゆる『折衷型』という形式のだんじりが生み出されたのも、昭和の終わり頃のことでした。

折衷型

しかし岸和田の曳き方を手本に祭礼そのものを改革してゆく中で、やはり『岸和田型』のだんじりというのは魅力的だったのでしょう。

では、昭和の終わり頃から平成にかけて、大津川から石津川まで分布勢力を伸ばした『岸和田型』だんじりですが、この先も石津川を越えてさらに北へ、今度は大和川をも越えて大阪市内までが『岸和田化』をするのか?・・・といえば、それは起こり得ない事だと申し上げておきます。

おそらく『岸和田型』だんじりの分布はこれ以上北上してくる事はないと思われます。

大阪市内や東大阪市近辺には、一部で例外的に『岸和田型』だんじりが点在しており、また一部で泉州式の遣り廻しをする町もチラホラありますが、あくまでそれは『例外的存在』であって、それが主流となって広がりを見せる事はないでしょう。

東大阪市で曳かれる『岸和田型』だんじり

大和川から北は、すでに祭礼文化そのものに違いがあります。
『祭のやり方』や『祭の位置付け』そして『鳴物(お囃子)』、さらには『祭に関わる人達の考え方』などが、泉州とはまるで違っています。

摂津には摂津の、河内には河内の祭礼文化が、すでに根付いています。
それをひっくり返してしまえる程、古くからの伝統というものは浅くはないはずです。

堺市内の中でも特に『だんじり文化圏』と呼べる南部は高石市や和泉市と隣接しており、その地盤はやっぱり『泉州』であり、祭のやり方も岸和田と似通っていたというバッグボーンもあった事で、『岸和田型』に染めていく事が難しくなかったと考えます。

そこから北は布団太鼓のエリアと、大和川の北側はだんじり文化が完全に絶滅したエリアが横たわっているので、それを越えて『下地車』が北上してくる事は、まずないと申し上げておきます。

摂津や河内の祭礼が『岸和田化』する事は考えにくい

『岸和田型』のだんじりは確かに姿見が美しく、彫物が精巧である上にそれがだんじり全体を埋め尽くしていて、大変豪華で魅力に溢れています。

しかし、『上地車』で祭礼文化を根付かせている地域には、『上地車』でないと成立しない祭が存在します。
平成の変革期を経て令和となった今現在、『上地車』と『下地車』はとても良いバランスで共存しています。
このまま、それぞれがそれぞれの存在価値を認め合いながら、この素晴らしき『だんじり』という祭礼文化を次世代に引き継いでゆきたいものです。

第六章: まとめ

今回は『下地車』について、その構造や特徴などを掘り下げてみましたが、たいして専門的な事は述べておらず、『上地車』をベースに独自に発展してきた経緯のようなものを、ほぼ推察の域でお話してみました。

中には『それは違う』と異論をお持ちの方もあろうかと思いますが、まぁ細部において認識の違いはあれど、遠からずの内容であったのではないかと考えています。

まだまだ『岸和田型』のだんじりは奥深い魅力を秘めているのですが、今回はこの辺で置いておきます。
またの機会があれば、また違った角度からお話してみようと思います。

『下地車(岸和田型だんじり)の話』

ページ先頭へ