【視れば揺らぐこの宇宙】第2回/愛と変化を恐れるなかれ『宝石の国』の視点

2017/08/10

WRITER吉田隆一

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【視れば揺らぐこの宇宙】第2回/愛と変化を恐れるなかれ『宝石の国』の視点

連載2回目です。今回は市川春子氏によるマンガ『宝石の国』についてのお話です。

前回の最後に「次回はニューウェーヴSFの現代マンガへの影響のお話」と予告しましたが、本作は(直接の影響かどうかはさておき)まさしくニューウェーヴSFが多くのフィクションにもたらした影響の上に成り立つ作品です。

まずは著者と作品の概略から……

市川春子氏は、短編『虫と歌』が講談社『アフタヌーン』主催のマンガ新人賞「アフタヌーン四季賞」を受賞し、2006年にデビューしました。その後、同誌にて短編作品を継続して発表し、短編集『虫と歌』『25時のバカンス』(共に講談社 アフタヌーンKC)を上梓。そして同誌2012年12月号より『宝石の国』の連載を開始します。本作は市川氏初の連載長編作品ということになります。
2017年8月現在、単行本は7巻まで刊行されており、連載は継続中です。2017年10月よりアニメ放映開始予定です。

・アニメ「宝石の国」公式サイト

【視れば揺らぐこの宇宙】第2回/愛と変化を恐れるなかれ『宝石の国』の視点-画像-01

©市川春子/講談社

物語の登場人物は人間状の「宝石」です。宝石たちに性別はありません。先輩格の宝石を「おにいさま」と呼び、一人称が「僕」「俺」だったりもしますが、さほどの意味はありません。宝石なので生殖機能はなく、自然発生的に生を受けます。
宝石たちは不死です。作中では3000歳を越す宝石も登場します。したがって宝石たちの時間の感覚は人間と異なります。宝石たちは、日々飛来する「月人」と戦っています。月人たちは宝石を捕らえ、月に連れて行くのです。宝石たちはその理由を知りません。ただ自衛のために延々と戦い続けているのです。

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©市川春子/講談社

主人公であるフォスフォフィライト(以下フォス)は宝石たちの中では若く(300歳)、宝石としての「硬度」もさほど高くなく、性格もあいまって戦闘に適した宝石ではないのですが、「役に立ちたい=戦いたい」気持ちをもてあます存在として登場します。
物語はそんなフォスの視点で進行し、様々な出会いと別れ、そこから生じる疑念により世界の秘密が徐々に明らかになっていく過程が描かれます。

本作に限らず市川春子氏の作品は、「2つのニューウェーヴ」が交錯する地点に存在します。

「2つのニューウェーヴ」……その1つは、前回紹介した「ニューウェーヴSF」です(ニューウェーヴSFの概略は、前回を参照ください)。
もう1つは、マンガの「ニューウェーヴ」です。

マンガにおける「ニューウェーヴ」とは、1970年代から80年代に見られた「ジャンル分類不能なマンガ作品とその作家」を指します。その多くが大手出版社以外の雑誌を発表媒体としたこともあいまって、いずれもアーティスティックかつアンダーグラウンドな雰囲気をまとっています。
市川氏は自身に影響を与えた作家の一人に、ニューウェーヴのマンガ家とみなされている高野文子氏を挙げています。実際に画風、台詞、コマ割の「テンポ」等にその影響が感じられます。特に高野氏の初期作品『ふとん』(単行本『絶対安全剃刀』白泉社・収録)の空気感は、市川氏の作風に通じるところがあります。また両氏は、萩尾望都氏へのリスペクトを表明している点でも共通しています。萩尾望都氏が、SF作家であるレイ・ブラッドベリの影響を受けていることを考えるとこれもまた興味深いのですが、それはまた別の機会に。

市川氏の作品は、高野氏に限らずニューウェーヴの文脈で語られる女性マンガ家作品(やまだ紫氏など)に通じる繊細さが感じられます。それは描線の細さなどの表面的な類似ではありません。「人間の心の微細な動き」に切り込んでいくために、セリフを含めたあらゆる「表現」に神経を配る細やかさが共通しているのです。

そして、人間の心の微細な動きを描くニューウェーヴ・マンガは、まさしく前回述べた「人間の内宇宙(イナースペース)」を描くニューウェ-ヴSFと親和性があると言えましょう。

……というわけで、次にニューウェーヴSFと『宝石の国』の関係について検証します。

【視れば揺らぐこの宇宙】第2回/愛と変化を恐れるなかれ『宝石の国』の視点-画像-03

©市川春子/講談社

本作には多くのSF的なガジェットが登場します。例えば、宝石の内部に意識を留め身体(結晶)を繋ぐ「内容物=インクルージョン」というアイデアは、現代SFにおけるナノマシンや、遡れば80年代の傑作SFであるグレッグ・ベア『ブラッド・ミュージック』(ハヤカワ文庫SF)に登場する生体素子にも近い存在です。フォスの外見の変貌など、ガジェットの特性に由来する画は強烈な印象を与えますし、そうしたシュルレアリスティックな画は市川マンガの大きな魅力です。しかし本作のSFとしての醍醐味は、ニューウェーヴSF同様に、SF的な手法を用いて掘り下げられる「人間の内宇宙」なのです。

本作において掘り下げられているテーマを、2つ挙げてみます。

1つは「肉体の生理に左右されない愛」の在り様です。『宝石の国』における宝石たちの最大の特徴はその身体です。あくまで無機的な宝石であり、人類のような肉体ではありません。それが何を意味するかといえば……肉体を持たない宝石たちは、その思考が生理的な波に左右されることがないのです。身体的特徴が生活のスタイルや戦闘行動を制限することはありますが、その生活/戦闘スタイルも長い年月にわたり安定しています。
つまり本作における宝石とは「身体を持った純粋な精神」という特異な存在と言えます。

それも神や天使や悪魔のような超越した存在の精神ではなく、ロボットが備える(そのロジックが問われるような)人工知能でもなく、あくまで人間の心です。宝石がなぜ人間の心を持つのかは、作中で暗示されていますが、悩みも嫉妬もする「精神」です。

人間の精神は生理的な波に多大な影響を受けます。特に欲望として認識されるもの……例えば食欲と性欲の支配力は強力です。本作の宝石たちは睡眠は必要としますが、それは欲望とはまた異なるものです。それは宝石たちにとって唯一の栄養のようなものなのでしょう。人間のように肉体を保ち、子孫を作る必要のない宝石たちにとって、保持すべきものが精神のみであることの証です。精神の栄養として睡眠を必要とするのです。

身体を持った純粋な精神による世界……SFの視点で見ると、これはまさしくサイバーパンク以降の現代SF文脈で語られるべきアイデアです。例えば現代SFを代表する作家であるグレッグ・イーガンが数々の作品で描くアイデアとも通じています。そして極めて独特です。

優れた現代SFでもある本作ですが、そうしたアイデアを用いて語られる内容は非常に観念的です。この「観念的なエンターテイメント作品」というフィクションの在り様を読者が受け入れる上で、長い時間をかけて、様々なメディアを通して拡散され、多くの人々の間で無意識に共有されたニューウェーヴSFの思想が機能しています。本作は「『ブレードランナー』以後に生まれたフィクション」なのです。

本作で語られる観念の1つ……「精神のみで成立する愛」ですが、市川氏の作品はその初期から同様のテーマを内包しています。肉体の生理、社会通念、そうしたくびきから逃れた愛が常に描かれています。デビュー作である短編『虫と歌』には、人間の外見を持った「虫」との「擬似家族」愛が描かれます。他の短編作品では同性や近親との間の、限りなく恋愛感情に近い「愛」が描かれていますが、それらもまた肉体の生理や社会通念から逃れています(その逃れ方は後述します)。

その延長線上に『宝石の国』の宝石たちがいます。宝石たちは無機物ゆえに肉体的欲望を持たないのです。そして宝石だけの世界には人間社会の通念も存在しません。

宝石たちは肉体的欲望も死の不安もなく、ただ互いに対する純粋な愛を育み、宝石たちにとっての親ともいえる存在……”先生”に対する愛について考え続けているのです。それは一見、無限に引き伸ばされた思春期のようにも見えます。友情や敬意が恋愛と区別されつつある時期の愛。しかし揺れ動く思春期の愛に比べ、宝石たちの愛はなんと静かなことでしょう。

ニューウェーヴSFの代表的作品に、J.G.バラードによる長編『結晶世界』(創元SF文庫)があります。熱帯を舞台に、人間や植物が結晶に変化していく……いわば「熱い」世界が冷たく美しい「静」に飲み込まれていく様が描かれた小説です。そして肉体的な「動」の愛は、結晶と暗闇の「静」にゆっくりと飲み込まれていきます。時間が引き伸ばされ、ついには静止するかのような終わりを迎える物語なのです。『宝石の国』で描かれる愛は、その行き着く場所のさらに先を指向しています。不死の宝石たちは、限りなく引き伸ばされ結晶化したような無限の時間の中で、「静」の愛を紡いでいるのです。

先行するマンガと比較するならば、萩尾望都『ポーの一族』で描かれた愛の形……不死=時を止めた少年たちが紡ぐ愛の在り様が、より掘り下げられているともいえます。『ポーの一族』に登場する不死の一族「バンパネラ」は限りなく不死に近い存在であり、主人公たちは引き伸ばされた永遠の思春期を生きる存在です。しかし彼らもまた肉体の生理に伴う精神の揺らぎと、人間の社会規範からは逃れられません。宝石たちの愛は、バンパネラのそれよりもはるかに静かで揺らがないのです。

……では『宝石の国』は、ただ美しき「静」が語られる物語なのでしょうか。そうではありません。先に述べたようにもう1つ、掘り下げられているテーマがあります。

それは「変化」です。

市川氏の作品ではこれまでも常に変化が描かれてきました。先に述べた、短編における「肉体の生理や社会通念から逃れる」方法としてもそれは機能しています。
姉弟の愛が描かれた『25時のバカンス』において、主人公の一人である姉は身体の内部が(空洞の)「貝」になった存在です。これによって姉弟の愛は肉体的欲望から逃れている、とも言えます。なにより重要なのは「身体の変化が存在の主体を全く損ねない」という点です。彼女は「身体が貝になってしまった」だけなのです。

前回、P.K.ディック作品は「人間は自分自身で自己を規定できない=揺らぎ続ける存在」を描いていると記しましたが、市川氏の短編作品で描かれる観念は、ディックのそれと合わせ鏡のように真逆ともいえますし、視点を変えれば同じことともいえるでしょう。市川氏の作品の登場人物たちは、どれだけ変化しても自己を見失うことがありません。肉体が変わっても自己を、自信をもって保ち続けます。同時にこれは、肉体というものに対し確固たる信頼を抱いていない人々を描いている、ともいえます。つまり市川氏の作中人物たちは、物理的には存在が揺らぎ続けているのです。
なにより特徴的なのは心の揺らぎです。自己をしっかりと保つ人々が、他者との関係においては頼りなげにさ迷いつづける様が描かれています。

では『宝石の国』ではどうでしょうか。

本作の主人公であるフォスは、常に変化し続ける存在です。
第一巻から様々な形で身体が変化していきます。宝石なので不死ではありますが、身体が欠損するたびに宝石以外のもの(貝や金属)が継ぎ足され、ついには他者の頭部が移植されたりもします。
精神も大きく変化していきます。他者との関係の変化にともなうものもありますが、物理的理由による大きな変化も描かれています。宝石たちの身体には中枢神経にあたる部位が無く、その記憶と意識を「インクルージョン」を通して身体に刻んでいるので、身体の欠損が記憶の欠損に繋がるのです。ゆえにフォスは身体の構成の変化により自己が変化し、揺らぐのです。
身体も精神も変化し続けたフォスはどこまでフォスといえるのでしょうか?
……こうした自己存在の揺らぎはまさしくディック的です。

どれほど時間がたち、存在が揺らいでも失われることがない愛の在り様と、様々な意味での変化……この2つの題材が、短編の名手である市川氏が本作を長編で描く意味を与えています。

いわばこれは、「愛と変化の、時間軸に沿った定点観測」のような作品なのです。

私が本作を読みながら思い浮かべていた言葉があります。

 「すべては変わりゆく
  だが恐れるな、友よ
  何も失われていない」
 (神林長平『アンブロークン アロー 戦闘妖精・雪風』ハヤカワ文庫JAより)

……それにしても登場する宝石たち皆、なんて優しく繊細なことでしょう。本当に美しいマンガなのです。
未読の方はアニメと併せて、是非。

次回は、ニューウェーヴ→現代SFの流れにある、また別のマンガ作品についてお話します。

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いやぁーSFって本当に良いもんですわよね

ほほえみ
  • 吉田 隆一さん
  • WRITER

    吉田 隆一(よしだりゅういち)

    1971年、東京生まれ。バリトンサックス奏者。”SF+フリージャズ”トリオ『blacksheep』などで活動。アニメ、SFに造詣が深く、雑誌やミニコミ誌等に論考やレビューを発表している。最新アルバムはblacksheep『+ -Beast-』(VELVETSUN PRODUCTS)

    Ryuichi Yoshida Official Web:http://yoshidaryuichi.com/

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