伊藤計劃『ハーモニー』の視点・後編--冷戦以後と「双子と銃」-- 【視れば揺らぐこの宇宙】第6回(1)

2017/11/29

WRITER吉田 隆一

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伊藤計劃『ハーモニー』の視点・後編--冷戦以後と「双子と銃」-- 【視れば揺らぐこの宇宙】第6回(1)

連載6回目です。今回は前回に引き続き、伊藤計劃『ハーモニー』(ハヤカワ文庫JA)についてのお話をします。
前回は『ハーモニー』という小説の重層的な構造についてお話しました。今回は描かれているテーマの一つについての考察です。論考の必要上、核心部のネタバレを行いますので、『ハーモニー』未読の方はその点にご留意ください。

『ハーモニー』と共通する要素を持つ『MONSTER』と『BLACK LAGOON』

まず最初に、本作と共通する「ある要素」を持つ2つの作品を挙げましょう。

それは浦沢直樹『MONSTER』(小学館)そして広江礼威『BLACK LAGOON』(小学館)です。

『MONSTER』は1994年から2001年にかけて雑誌「ビッグコミックオリジナル」に連載された漫画です。2004年にTVアニメ化されています。

舞台はドイツ、そしてチェコ。より指名手配された主人公の脳外科医・天馬賢三が逃亡を続けながら殺人事件の真犯人を追うという、いわばTVドラマ・映画『逃亡者』と同様のプロットなのですが、真犯人の出自を巡って謎が謎を呼ぶ、一筋縄ではいかない優れたエンターテイメント作品となっています。
多くの登場人物が織り成す複数のドラマが並走する複雑な構造を持っていますが、それをわかりやすく展開させる手並みは見事であり(まさしく海外TVドラマ的手法です)、人気を呼びました。

本作で重要な役割を果たすのが、殺人事件の真犯人である少年・ヨハンと双子の妹・ニナです。双子の出自にはチェコ・プラハで行われたある「実験」にまつわる謎があり、その真相が最終的に物語の中核となります。

そしてもう一作の『BLACK LAGOON』は、2001年から雑誌「月刊サンデージェネックス」で連載が始まった漫画です。休載を挟みながら現在も連載は継続しています。2006年にTVアニメ化されています。

本作はタイの架空の都市を舞台にした強烈なクライムアクションです。登場人物は全て「悪党」であり、主人公の元ビジネスマン/日本人のロックは善悪の彼岸に身を置いています。ロックをはじめとする多くの登場人物の心象風景を、血で血を洗う悪党同士の抗争を通じて描く物語です。

この2つの作品に共通の要素は、まず「冷戦以後を描いた物語」である点です。共に90年代、ソ連崩壊後の世界を舞台にしています。
そして具体的なモチーフが2つ、共通しています。

まず「双子」です。『MONSTER』ではメインキャラとして、『BLACK LAGOON』ではエピソードのゲストキャラとして登場する「双子」がいます。
そして共に「銃」が重要な役割を果たします。

ではそれぞれのモチーフが象徴するものとはなんでしょう。
まずは「双子」について検証します。

「意識を共有する存在」として描かれることが多い、双子

フィクションにおいて「双子」は、意識を共有し相互補完するキャラクターとして描かれるパターンが多く見られます。「意識を共有」と一言で言っても、思考や生活のペースが似ているというものから超能力のようなレベルまで幅がありますが。

本連載で扱っているテーマとリンクする一例を挙げます。明智抄『水上夢幻始末人』( 1988年発表。『百花繚乱始末人』花とゆめCOMICS/朝日ソノラマ文庫収録)という短編漫画です。

本作は、「必殺シリーズ」の現代版のような市井の暗殺者たちを軸に、ギャグとシリアスが極めてメタに交錯する奇妙な連作短編の一作です。
本作には双子の青年が登場します。一人は作家志望、もう一人は病弱で外出もできないという設定です。二人の間にはテレパシーのような「感覚の共有能力」があります。
作家志望の青年は病弱な兄弟のために物語を紡ぐのですが、あるきっかけにより懐疑にとらわれます。
自分で思いついたものと信じていた小説のアイデアは、ひょっとしたら感覚の共有によって兄弟に植えつけられたものではないのかと。今までの自分の行動は自由意思ではなかったのではと。
その疑問は否定も肯定もできません。証明する手段がないのです。そして彼はアイデンティティーの揺らぎにより煩悶するのです。

……こうした例にみられるように、フィクションにおける双子とは、「意識を共有する存在」というイメージに由来する「アイデンティティーの揺らぎ」の象徴として機能するケースがあるのです。

「冷戦以後」、自我が揺らぐ象徴としての「双子」

『MONSTER』そして『BLACK LAGOON』において、双子のキャラクターはまさしくそのような暗示を秘めて登場します。
どちらの物語も、冷戦以後の世界においてアイデンティティーを失った多くの人々を描いているからです。

「人間はね 何にだってなれるんだよ」

これは『MONSTER』作中、双子の妹ニナの記憶に何度も繰り返し登場する言葉です。
ニナの内部においては、自分自身のアイデンティティーを揺らがせる言葉として。
物語全体においては、冷戦以後の世界における、ある種の喪失感を暗示する言葉として。

『BLACK LAGOON』には、エピソード『Bloodsport Fairy tale』(単行本2巻~3巻収録)にて本作屈指の名キャラクターである双子の殺し屋が登場します。

互いを「兄様」「姉様」と呼び交わす双子の少年少女“ヘンゼルとグレーテル”は、自我の境界線が存在しない存在です。二人の自我は完全に混交しています。そして職業的殺し屋であり快楽殺人者です。

そのようになった原因は彼らの出自にあります。彼らはルーマニアの政変に伴う人口政策が原因で路頭に放り出された孤児「チャウシェスクの落とし子」であり、人身売買により児童ポルノ、スナッフ(殺人)ビデオに出演させられ「慰みもの」となった子供たちなのです。

『MONSTER』と『BLACK LAGOON』は「双子と銃」を通して冷戦以後を描いた物語

そしてこのエピソードで描かれるのは、彼ら「チャウシェスクの落とし子」と、かつてアフガンで闘った旧ソ連の軍人であるロシアンマフィアの殺し合いです。

……ではここで、もう一つの共通モチーフ「銃」について考察してみましょう。

『MONSTER』と『BLACK LAGOON』に共通するもう一つのモチーフが「銃」です。どちらの作品も、登場人物が持つ銃が象徴的に描かれています。それはアクションの小道具という記号を超えた存在にも思えます。なぜそのように見えるのでしょう。

フィクションにおける「銃」が象徴するものとはなんでしょう。これは筆者の持論ですが、銃とは作中人物の「意思の象徴」です。生存への意思、明確な敵意、そうした意思を弾丸を介して他者に伝える道具/記号として描かれます。
そして登場人物のアイデンティティーの象徴です。軍人、法執行機関、悪党、その立場を示すアイコンです。いずれにせよ銃は登場人物にとって「従」の存在と言えます。

しかし、明確な意思を持ちえない者、アイデンティティーを失った者が他者に向ける銃は一体どのような意味を持ちえるのでしょう。

意思や存在が揺らいだ人物が他者に銃を向けるとき、その銃はアクションの小道具や登場人物のアイコンを超えた、別の意味の象徴として機能します。『MONSTER』において天馬が迷いと矛盾をはらみながら構えるベレッタM92、『BLACK LAGOON』において「姉様」がにこやかに殺戮を繰り広げるためにその引き金を引くブローニングM1918……これらの銃はまさしくそのような存在です。
「銃を構える」という選択は彼らにとって本当に必然なのでしょうか。誰が銃の引き金を引かせるのでしょう。
彼らが銃を構える時、まるで銃と人間との主従関係が逆転しているかのように見えてくるのです。

そして大きな意味では(当然のように)銃は闘争の象徴です。
これらの物語ではその背景に東西冷戦が横たわっています。冷戦構造が失われ、さらには軍籍を剥奪されアイデンティティーを失った元ソ連兵たちが構える銃もまた、主従関係の喪失の象徴にも思えます。
軍人でなくなった彼らの新しい主人は、彼らが手にしている銃なのです。

いわばこれらの作品において銃とは「冷戦以後」の象徴としても機能しているのです。であれば『MONSTER』と『BLACK LAGOON』は共に、「双子と銃」という象徴を通して冷戦以後を描いた物語とも言えるのです。

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