2018/01/25

『孤高の人』『イノサン』の〈音〉が問う、漫画表現の面白さ「私たちの気付かない漫画のこと」第7回

『孤高の人』『イノサン』の〈音〉が問う、漫画表現の面白さ「私たちの気付かない漫画のこと」第7回

泉信行・西島大介

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漫画研究家・泉信行さんが、漫画家・西島大介さんの挿絵とともに、いつも私たちが読んでいる「漫画」のイメージや、見え方が変わるような視点をお伝えしていきます。

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効果音一切無しのマンガ「すべてがちょっとずつ優しい世界」

〈それ〉が消えたことに、読者は気付かなかった

実在の日本人登山家をモデルにした登山漫画『孤高の人』と、フランス革命期の処刑人一族(サンソン家)を描く『イノサン』『イノサン Rouge』の作者、坂本眞一

坂本眞一『イノサン』9 (ヤングジャンプコミックス・集英社)
©坂本眞一/集英社

彼はNHK Eテレの「SWITCHインタビュー 達人達」に出演した時(2017年5月6日放送)、ある創作の秘密を語っていました。

SWITCHインタビュー 達人達(たち)「中島美嘉×坂本眞一」(NHK)

それは『孤高の人』のある時期から「描き文字の擬音を一切使わなくなった」という、日本の漫画の常識を打ち破るものでした。
無音のサイレント漫画というわけではなく、フキダシのセリフやナレーションといった「言葉」はあります。ただ、擬音や効果音がまったく出てこないのです。

この試みを彼は「読者への信頼」と語ります。
文字にしなくても、読者には頭のなかの「音」がある。それを呼び覚ますことができるのなら「音」は聴こえるはず。
その読者を、信用したい。擬音に頼らなくても「どんな音が鳴っているのか」は読み解けるのではないか、と。

例として『孤高の人』の第116~117話(12巻収録)では、独特な比喩表現が編み出されています。
雪山の登山中、巨大な氷の塊が崩れ落ちた「轟音」に登場人物が耳を澄ますというシーンですが、その場面で描かれたのは「崩れる氷塊」ではなく、「倒壊するビル」の姿でした。

「崩れる氷塊」ではなく、「倒壊するビル」の姿

つまり登山経験のない読者にとって、氷塊の崩れる音や、雪崩の音はイメージしにくいかもしれません。
でも、雪山よりも身近な「ビル」のビジュアルを呼び水にすることで、「ゴゴゴ…」といった「轟音」を連想させられるのではないか?

「ビル倒壊」の代わりに効果音を描いたパターン
「ビル倒壊」の代わりに効果音を描いたパターン

また、そこで連想するのは「音」というより「振動」「衝撃」と呼んだほうが相応しいかもしれません。
空気の振動でもある「音」は、物質同士がぶつかったり、こすれたりすることで耳に届くものですが、それは擬音でも表せない「世界の運動」を人間が感じるためのプロセスでもあるからです。

このお話にとって重要なのは、「SWITCH」で対談した中島美嘉が「正直、読んでいてずっと気付かなかった」と驚きを隠していなかったことでしょう。

読者が「読み解く」どころか、擬音が消えたという事実すら意識させないまま、自然に「感じさせる」ことに成功していたんですね。

「SWITCH」で明かされたことを周囲の人に話すと、『孤高の人』と『イノサン』をリアルタイムで読んできた読者でも「言われるまで気付いてなかった」という反応がありました。

『孤高の人』は元々、標準的な「描き文字」で擬音を描く漫画として始まっています。
大きな音ほど描き文字は大きくなり、激しい音ほど字の形を荒々しく描くような。それはごく普通の技法だったと言えるでしょう。
1巻の試し読みで確かめてみてください。

http://www.s-manga.net/cgi-bin/s-search_new.cgi?series=X78-4-08-877426-8&order=1

しかし2009年頃(6巻や7巻あたり)から、少しずつ『孤高の人』の描き文字は減っていき、文字のサイズも小さく、控えめに縮小していきます。
その年に公開された、作者の対談動画からも「変化の意図」がうかがえます。発言を引用してみましょう。

自分も今回、この『孤高の人』っていう漫画ですごく成長させてもらってるんですけども。
たぶん自分の変化としては4巻あたりから出てきて。
(読者には)「読む」「見る」じゃなくて今度は「感じる」っていうほうに行ってほしいなと思ってて。
漫画って描き文字の表現があるじゃないですか。「ドカッ」とか「バキッ」とか。ああいうのも極力、もう無くしていきたいなと思っていて。
それはストーリーから流れていったり、絵の表現から、それはたぶん「聴こえてくる」んじゃないかなという風に思っていて。それがちょっと今後の大きな課題で。

漫画『孤高の人』坂本眞一 × 映画『劔岳 点の記』木村大作

さらに決定的な変化が見えるのが、11巻(第103~112話)。
ただでさえ目立たなくしていた描き文字が、ほぼ消失し、「両手をパンと打ち合わせる音」「呼び鈴をチンチン叩く音」(これは描き文字ではなくフキダシ内のフォントでしたが)、「ライターをカチカチする音」、「カメラでパシャパシャ撮る音」など、絵だけだと何をしているか伝わりにくそうな場面のみに小さく擬音を入れています。
例えば両手を合わせた絵は「合掌しているだけ」にも見えるでしょうし、パシャっという音のないカメラの絵は「カメラを構えただけ」にも見えるでしょうからね。

そもそも「静止画」で表現する漫画にとって、擬音は「絵に運動を与える」という大きな役割があります。
例えばパソコンのマウスに手を乗せた静止画だとしても、「カチ、カチ、カチ」と擬音を付ければ「3回以上クリックした」絵になる……というように。「見た目の変化が少ない繰り返し運動」にこそ、擬音は効果を発揮します。

ちなみにこの頃の坂本眞一は、描き文字だけでなく「効果線」「スピード線」などと呼ばれる漫画表現すらも封印しようとしています。

両手に効果線を加えれば「素早く手を叩いた」という運動を伝えることもできそうですが、その手段も封じているので「パン」という擬音を選んでいたのでしょう

両手に効果線を加えれば「素早く手を叩いた」という運動を伝えることもできそうですが、その手段も封じているので「パン」という擬音を選んでいたのでしょう(逆に12巻の第113話では、「両手で顔を叩くコマ」に細かいスピード線を入れて擬音を消したパターンが見つかります)。

そして「パシャ」の文字を描いた第109話を最後にして、それ以降の描き文字はおそらく完全に消失しています

これを自然な表現として成り立たせたのは、前述した「比喩表現」だけでなく、「見ているだけで雪の音や息遣いまで聴こえてきそう」な、精細で緻密な作画によるところが大きいと言えるでしょう。
凍てつくような雪中登山の、そして飢えや渇きとも争う極限状態を描いた『孤高の人』にとって、肌や唇のシワまで描き込む坂本眞一の画力は、「描き文字」よりも雄弁に「読者の感覚」を刺激するでしょう。

私たちはしばしば、線や色などの視覚的情報量が多いことを「目にうるさい」などと音に喩えることがあります。
よくある「描き文字」にしても、その字の大きさやペンタッチから「音の強弱」をなんとなく感じ取りますし、人は「視覚」情報「聴覚」情報へと変換する機能を元々備えているようです。

坂本眞一が「信頼」しているのは、こうした人間の性能であり、彼はその信頼関係を「自らの作品が読者に読まれる」ことで証明しつづけている……と言えます。

■小説と漫画の比喩表現~板垣恵介と坂本眞一の場合~

坂本眞一『イノサン Rouge ルージュ』6 (ヤングジャンプコミックス・集英社)
©坂本眞一/集英社

『孤高の人』で「氷塊」を「ビル」に置き換えたように、『イノサン Rouge』6巻では「暴徒と化して押し寄せる民衆」を「陸に押し寄せる大波」として描くなどの比喩表現が見つかります。

ところで漫画の比喩表現と言って思い出すのは、『餓狼伝』『グラップラー刃牙』の作者、板垣恵介です。

原作:夢枕獏/漫画:板垣恵介『餓狼伝 格闘士真剣伝説』 (KCデラックス・講談社)

『餓狼伝』の原作者である夢枕獏は、板垣恵介を「表現の開拓者」と讃えています(『餓狼伝 格闘士真剣伝説』より)。
原作小説で「向かい合った二人の間の空気が歪む」といった描写があれば、板垣恵介は本当に背景を歪ませて「歪んだ空気」を描いてしまう
また、タックルで格闘家に抱きついた時に「岩を抱いたような気がした」という比喩があれば、本当に抱き締めた相手の肉体を「巨大な自然石の塊」に変えてしまう

作家としての夢枕獏は「言葉のイメージ」が先行していて、具体的な形は浮かんでいない時があると言いますが、あまりにも言葉通りの漫画にしてしまう板垣恵介を「普通の(格闘技)漫画家だったら描かないよねえ」と、その新しさに感心していたようです。

「~のような」、と言う比喩を「直喩」と呼びますが、板垣恵介の描く「岩」は直喩に近い漫画表現だと言えるでしょう。
坂本眞一が「暴徒」を「押し寄せる波」で表現したのも「直喩」に近いのですが、「間接的に音をイメージさせ、擬音を消す」手法として成立させた違いがあります。それもまさに「表現の開拓者」としての成果でしょう。

新田次郎『孤高の人』〈上〉 (新潮文庫・新潮社)

ちなみに原作小説に基づく『餓狼伝』と同じく、坂本眞一の『孤高の人』も、同名の小説(作者は新田次郎)を「原案」としています。

『ジャンプSQ.』2009年10月号に掲載されたインタビュー記事(後に完全版が公式サイトに掲載)も参照してみましょう。
そこで坂本眞一は、

やっぱり、既成のワクにとらわれないで、マンガ表現の定説を覆すくらいのことをやってみたいです。

……と表現への意欲を語るだけでなく、
「今まで漫画という目線だけで考えていたのが、文章で表現する小説という違うジャンルを入り口にすることで、自由な発想で描けるようになった」
とも自己分析しています。

漫画としての『餓狼伝』も『孤高の人』も、本来は「絵も使える」「文章も使える」というメディアです。
しかし小説という「文章のみ」のメディアが新しい表現を生むキッカケとなった、というのは面白いことだと思いませんか?

表現から生まれる「面白さ」とは

「言われるまで気付いてなかった」という読者もいる坂本眞一の表現は、まさにこの連載シリーズのテーマにぴったりなことかもしれません。

そこで少し考えたいのは、その表現をまるで意識しない状態でも、「自然に読まれている」のが彼の漫画だということです。
「擬音がないから、無音の変な漫画だな」とか、「他の漫画に比べて何か足りないな」という感想には繋がらないのです。充分に「音の要素」を漫画のなかに感じられるからでしょうか。
(逆に、例えば「セリフ以外の効果音やBGMが消された映画」などを観ると、他の作品と比べてちょっと変だな、と勘付きやすい気がします。)

つまり、漫画表現に対して「気付く」こととは別に、「感じる」「伝わる」は可能なのです。
それは第2回の記事で触れたような「人の無意識の能力」に関わってくる話ですし、「人は無意識の能力をほとんど意識化しない」という問題だとも言えます。

作者もことさらに作品解説をしているわけではありませんから、彼の表現手法は「気付いてもらう」よりも「感じてもらう」ことが重視されているのだと思います。

そこからさらに少し踏み込んで、漫画の「面白さ」とはどこに生まれるのか? という大胆な……本質的な問いについても考えてみましょう。

キーワードとなるのは、「描かれていないものを感じた」、「語られていないものが伝わった」時にこそ私たちは面白いと思うのではないか、ということです。

漫画にかぎらず、どんなジャンルの作品でも同じはずです。
俳句や川柳のような短い作品でも、「その作品が直接語っていない要素」が頭に思い浮かんだ時に、私たちは「面白い」と感じるものです。
(「古池や かわずとびこむ 水の音」と詠んだ直後、ついつい「ちゃぽん」という擬音を心で付け足したくなるような気持ちが「描いていない面白さ」だと言えるでしょうか。)

言い方を変えると、「表現によって私たちの心が動いた」時、それを「感動する」と呼ぶのではないでしょうか。
英語で「面白い」は「mind-blowing」、つまり「心を動かされた」とも言いますが、「感動する」の英語もやはり「moved」……と、心動かされる状態を言い表しています。
感覚や感情、記憶や思考がフルに働くこと自体が喜びに繋がる。

漫画とは、極論すると二次元のデータや印刷物にすぎません。そこに「ドラマ」や「別の世界」「キャラクターの心」などを感じるのは、私たち人間の仕事なのです。

二次元に、本来ありえない要素の代表格とは、例えば「絵の奥行き(空間)」、「空間に伴う運動」「音」「リズム」であり、そして「キャラクターの心」があるでしょう。

第6回でも紹介した、伊藤剛の漫画論では「目の作画」による心理表現が重要視されています。それも「キャラクターの心を感じさせる」ことこそが「漫画の面白さ」にとって本質的だと思われるから、でしょう。

この連載で体験してきた「左右の流れやアングルの効果」「キャラクターとの距離感」の感覚も、紙面のなかには存在しない、読者が「漫画の外側」から感じるものたちでした。

笑っているキャラクターの絵なのに、「実はつらい気持ちなんだ」と明らかに分かったり、無表情なのに実は嬉しいのだと分かったりすると、私たちはついついそのキャラクターに魅力を感じてしまう、という現象も多くあるでしょう。
疑いなく「そこにある」と感じられる! でも具体的には存在しないし、極論すれば「それそのものを描くことはできない」。それが心というもの。

物体の「影の長さ」を見れば、太陽を見なくても光源の位置が分かるというような、間接的に感じるものです。

逆に考えれば、具体的には描かずに、見えないものを読者に連想させる……イメージを喚起させる表現であるほど、それは「面白さ」に繋がる、と言えます。

そして前述したように、漫画は「絵」と「言葉」を両方操れるメディアです。
普通に考えると、「言葉だけ」の小説のほうが、「描かれていないものを感じる」面白さを意識しやすいメディアかもしれません。
坂本眞一が小説から学んだ発想というのも、その「描かない部分の面白さ」だった可能性が高いと思います。

では結局、情報量が多彩な「漫画」よりも、「小説」のほうが有利なのか……? というと、絵と言葉の情報量を「操れる」メディアが漫画である、という点を再注目すべきでしょう。
操れるということは、自在に減らしたり、増やしたりできるということ。坂本眞一も、「効果線」と「擬音」をわざと封印していたように。

読者に「イメージを連想」させるための言葉をいくらでも連ねることもできれば、肝心なポイントだけわざと書かず、はぐらかすという操作だって自在です。
時折、漫画家は「セリフに頼らない」「言葉の説明に頼らない」という主義を論じたりもしますが、「画力で伝える」のが大事なのは当然として、物語の最も肝心なポイント以外はどんどん言葉で語ってしまえばよい、とも感じます。
むしろそうすることで、「絵だけ」のシーンの落差(コントラスト)が活きる時もあるでしょう。

逆に「言葉しか残らず、絵が消える」時に心が動かされることだってあるでしょう。文章しかないページで表現するのも、漫画的には「アリ」です。
坂本眞一の漫画にしても、「擬音」が封じられているだけで、言葉(文字)はむしろ饒舌なくらいのページがあるのですから。

ところで映画やアニメの場合、役者(声優)のセリフ量は増やせても「文字量」にはちょっと限度がある、という違いも言えるかもしれませんね。

つまり「絵と言葉」のメディアである漫画は、いくらでもそれらを増量でき、無くすこともできる
饒舌にも、寡黙にもなれます。
その増減できる情報の「幅」の広さこそが、これまでの記事でも見てきたように、豊かな……そして他にはない「面白さ」を生む表現なのだと。
漫画と小説を共に読み比べることで、そんな風に感じるのです。

さて、次回はWebやデバイスで読む「電子コミック」をテーマにする予定です。

『孤高の人』『イノサン』の〈音〉が問う、漫画表現の面白さ「私たちの気付かない漫画のこと」第7回-画像-05

冒頭で紹介されていた『すべてがちょっとずつ優しい世界』はこちら!

西島大介『すべてがちょっとずつ優しい世界』(モーニングコミックス・講談社)

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  • 泉信行さん
  • WRITER

    泉信行

    漫画研究家、ライター。2005年頃から、漫画表現論の研究発表を行う。同人誌『漫画をめくる冒険』上下巻の発行の他、漫画に関する仕事では『マンガ視覚文化論』(水声社)、『藤田和日郎本』『皆川亮二本』『島本和彦本』(小学館)への寄稿などがある。
    http://d.hatena.ne.jp/izumino/

  • 西島大介さん
  • WRITER

    西島大介

    漫画家。2004年『凹村戦争』でデビュー。『世界の終わりの魔法使い』『すべてがちょっとずつ優しい世界』など作品多数。「月刊IKKI」休刊により未完となった『ディエンビエンフー』が双葉社「月刊アクション」に移籍。完結を目指し『ディエンビエンフー TRUE END』第1巻を2017年8月10日刊行。「ゲンロン ひらめき☆マンガ教室」主任講師も務める。音楽家「DJまほうつかい」としてアルバムを4枚、EPを3枚リリース。
    https://daisukenishijima.jimdo.com/

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