1938年下半期、女性が芥川賞を初受賞「苺入りのクリーム菓子」と言われた中里恒子

2018/06/26

WRITER文:菊池良/絵:西島大介

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1938年下半期、女性が芥川賞を初受賞「苺入りのクリーム菓子」と言われた中里恒子

1938年下半期の出来事

文部省が勤労動員の招集を始める。また、1940年の東京オリンピックの返上も決まった。宮﨑駿監督のアニメ映画「風立ちぬ」で取り上げられた堀越二郎が零戦を設計し、試作機が作られていた。
非常時生活様式委員会は「戦時生活様式」を決め、白米の禁止、一汁一菜、宴会の取りやめなどを盛り込んだ。
9月には従軍作家として久米正雄や林芙美子らが中国に派遣される。この呼びかけには菊池寛が関わっていた。同じころ、内務省図書検閲課によって雑誌編集上の禁止事項が取り決められる。さらに用紙使用制限の通達もされた。
政府は西田幾多郎や三木清に講演を依頼し、戦争に向けた理論的支柱を固めていき、10月に「新東亜秩序」の建設を宣言する。第6回芥川賞受賞者の火野葦平が『麦と兵隊』を出版し、100万部を越えたのもこのころである。
ナチス・ドイツはズデーテンラント地方をめぐってチェコスロバキアと対立を深める。イギリスのチェンバレン首相はヒトラーを譲歩させようと動くが、それは叶わず。イギリスは本格的な戦争に向けて備えを始める。

芥川賞を初めて女性作家が受賞する

そんな状況のなか、芥川賞の候補作となったのは以下の4つである。

北原武夫「妻」
外村繁「草筏」
中里恒子「乗合馬車」その他
吉川江子「お帳場日記」

このうち、外村の「草筏」は第一回の候補作だったものだ。雑誌連載が完結したため、改めて候補に挙がった。しかし、池谷信三郎賞の受賞が決まったため、途中で候補から外された。池谷信三郎賞とは33歳で亡くなったモダニズム作家の池谷信三郎の名を冠して、菊池寛が1936年に創設した賞である。
残った3つのうち、中里の「乗合馬車」「日光室」の2編に芥川賞が贈られた。芥川賞初の女性作家である。その作風の鮮明さが評価された。


「中里恒子さんの作品は、いずれも閨秀画家の水彩を見るように、鮮かで綺麗だ。(中略)苺入りのクリーム菓子のようでもある」(久米正雄)

「女性らしい繊細な心持が美しく見事に描かれて、人々の心持でも、風景でもその明るみ影もなかなかうまく、上品な絵のような所もあった」(瀧井孝作)


2人の選考委員が絵画の例えも持ち出しているのが特徴的である。「苺入りのクリーム菓子」という表現も面白い。
中里は芥川賞の受賞を知ったときのことを、「少女の頃から描いていた夢のような日がきてしまった」と書いている。

国際結婚で静かに揺れる家族たちの心情

受賞した「乗合馬車」と「日光室」はどちらも国際結婚を題材にしている。
「乗合馬車」のあらすじはこうだ。
彩子の兄はイギリス人の女性ドロシイと国際結婚し、子どもたちと義姉アデリヤを連れて日本にやってくる。
アデリヤは夫の森之助の援助によって、婦人向けの帽子店を開く。始めは知り合いの外国人女性たちが訪れて祝ってくれるが、赤字続きで夫の補填なしでは経営が続けられない。
故国を離れて日本に住む外国人婦人たちの孤独が描かれていく。


日本に住むこれらの外国生れの夫人たちは、充分日本住いを好いていながらも、なんとなく不安そうに、絶えず探しものを続けているような、哀しい暮し振りをしている。


夫婦の関係はぎくしゃくし、やがてアデリヤは結核にかかって倒れてしまう。
中里の文体の特徴は会話の書き方にある。かぎ括弧の最後を句点で終わらせるのだ。例として作中の会話の一部を抜き出そう。


「そうぞうしい子供たちだ、それにドロシイもドロシイだ、」

「だって、ぱぱ、」

「うるさいっ、」


この特徴はほかの中里作品でも徹底している。おそらく現実で行われている会話の流れを意識したものであろう。
また、時おり現れる鮮明な比喩も印象的だ。

一瞬、部屋のなかは衣装棚をひっくり返したようになって、みんなの影がごちゃごちゃと壁に重なりあった、まるで美しい獣物(けもの)たちのように。

このような表現が選考委員の久米に「苺入りのクリーム菓子」と書かせたのかもしれない。

兄や娘の国際結婚を下敷きにした作品を書いた

中里は1909年、江戸時代から続く呉服問屋に生まれた。
13歳のとき、貿易会社のシドニー支店に勤めていた兄がイギリス人の妻と長女を連れて帰ってきた。この境遇はやがて小説の題材となる。
文章を書き始めたのは女学校時代から。19歳のとき、女学校の教師の紹介で編集者の菅忠雄に原稿を見てもらったところ、それが雑誌『創作月刊』に出ることとなり、文筆の道に入った。
20歳のときに兄の友人の弟と結婚。夫の兄嫁もフランス人だった。結婚生活に入り、しばらく執筆からは離れていたが、病気療養のために住んだ逗子で作家の横光利一と知り合い、横光に師事をして再び短編小説を書き始める。その後も育児や家事の合間に小説を執筆し続けた。このころ、横光の紹介で川端康成とも知り合う。
1937年、中里が28歳のときに川端が雑誌『少女の友』に「乙女の港」の連載を始める。これは中原淳一が挿し絵の少女小説で、中里が代作者だった。中里が書いた原稿に川端が手を加えたと言われている。
翌年、中里は雑誌『文學界』で「乗合馬車」を発表。これが芥川賞受賞となる。
娘がアメリカに留学し、そのまま現地で結婚して移り住んだ。中里は娘のもとを訪ね、3カ月ほど滞在する。中里はそのとき47歳だった。その体験をエッセイや小説にし、アメリカの人々の暮らしやニューヨークの様子を書き綴った。また、娘との往復書簡を雑誌『それいゆ』に連載している。娘が移住したあと、中里は逗子の家で一人暮らしをした。
その後も作品を書き続け、『歌枕』で読売文学賞、『わが庵』で日本芸術院恩賜賞、『誰袖草』で女流文学賞を受賞する。
1987年、横浜の病院で娘と孫が見守るなかで亡くなった。77歳だった。

第7回は老人の友情を描いた「厚物咲」

第9回は「全くの無名」の2人

  • 菊地良
  • PROFILE

    菊池良

    1987年生まれ。ライター、詩人。2009年に「二代目水嶋ヒロ」を襲名。著書に『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』(共著・神田桂一)、『世界一即戦力な男』がある。

  • 西島大介
  • PROFILE

    西島大介

    漫画家。音楽活動の名義は「DJまほうつかい」。2004年『凹村戦争』でデビュー。『世界の終わりの魔法使い』『すべてがちょっとずつ優しい世界』など作品多数。「月刊IKKI」休刊により未完となった『ディエンビエンフー』が双葉社「月刊アクション」に移籍。完結を目指し『ディエンビエンフー TRUE END』第1巻を2017年8月10日刊行。「ゲンロン ひらめき☆マンガ教室」主任講師も務める。

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