2009年、商社の次長が芥川賞を受賞。2010年上期受賞作は『アンネの日記』の影響で生まれた

2018/10/11

WRITER文:菊池良/絵:つのがい

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2009年、商社の次長が芥川賞を受賞。2010年上期受賞作は『アンネの日記』の影響で生まれた

三井物産の現役サラリーマンが芥川賞を受賞

終の住処

44歳、総合商社に勤務する管理職。そう聞いて、文学を連想する人はどれぐらいいるだろうか。
磯崎憲一郎は三井物産に勤務するサラリーマン。第141回の芥川賞は磯崎の『終の住処』が受賞した。受賞時は人事総務部の次長だった。

『終の住処』は30歳を過ぎた男女が結婚するところから始まる。
夫は製薬会社に勤めているが、営業成績は悪かった。家に帰ると妻は不機嫌だった。
結婚してもうすぐ3年目というところで浮気をしてしまった夫は、「離婚するしかないだろう」と決意する。
夫が妻をホテルのロビーに呼び寄せると、先に妻に告げられてしまった。「妊娠したの」。
2人の結婚生活はそこから何十年と続くのだった。

『終の住処』が描くのは、長い長い家庭生活だ。男女が出会ったとき、2人とも半ば諦めたように結婚を選んだ。離婚のきっかけを失い、仕事の紆余曲折もありながらも、「家庭」は続いていく。それは能動でも受動でもなく、起こる事件に対して、雨を止むのを待つようにしのぐ。
普通に読むと、筋書きのない小説に思えるかもしれない。固有名詞を示さない書き方。満月がずっと続いているという奇妙な描写。しかし、筋書きがなく、一見合理的でもない、紆余曲折のあるストーリーというのは、私たちの人生そのままだ。ここには深い感情移入がある。

保坂和志に「小説を書いてみたら」と言われ……

磯崎は1965年千葉県生まれ。早稲田大学を卒業後、新卒で三井物産に就職。
中学時代に北杜夫や遠藤周作を読んだが、高校時代は音楽に熱中し、大学時代はボート部に入っていた。小説をまた読み始めたのは30歳になってから。仕事の関係でアメリカに駐在しているときに、大量に純文学を読み返した。
小説を書くようになったのには、奇妙な経緯がある。
保坂和志の小説を読み、保坂のウェブサイトを見たところ連絡先が載っていた。そこにメールを送ると返信があり、アメリカから一時帰国したときに会食したのだという。そして、その場で保坂に小説を書くことを薦められたのだそうだ。
そこから早朝に執筆する生活が始まる。朝早く起きて1時間ほど執筆してから会社に行くというのを続けた。
2007年、『肝心の子供』で文藝賞を受賞。42歳での作家デビューだった。
芥川賞を受賞後も、『赤の他人の瓜二つ』『電車道』など精力的に小説を執筆。受賞から6年後の2015年9月に会社を退職した。
現在は東京工業大学で教授職にもついている。


終の住処 (新潮文庫)

『アンネの日記』を読みながら乙女の噂が渦巻く

第143回芥川賞は赤染晶子『乙女の密告』に決まった。

「重い主題を中心に埋め込んで、しかし一見したところまこと軽やか」(池澤夏樹)
「全体にただよう諧謔が、とても好き」(川上弘美)

選考は『乙女の密告』が最も点数を集め、早々に受賞となったという。

『乙女の密告』は京都にある外国語大学が舞台だ。そこは女子の比率が圧倒的に多い。
あるとき、ドイツ語のスピーチのゼミで、『アンネの日記』を原書で暗唱する課題が与えられる。
バッハマン教授は女学生(乙女)たちに問う。『アンネの日記』で一番重要な日はいつですか。
教授はそれを「1944年4月9日」だという。それはアンネたちが暮らす隠れ家のすぐ近くまで警察がやってきた日だった。
乙女たちは『アンネの日記』を暗記し始めるが、教室にはある「噂」も流れ出す。
乙女たちのなかで弁論が得意な「麗子様」が、バッハマン教授にスピーチ原稿を作ってもらっているのではないかという噂だ。
さらにバッハマン教授の研究室からは、ときどき教授が誰かに話しかける声がする。あれは誰か乙女と密室で話しているのではないか──。

『乙女の密告』は「世界を変えた本」とも言われる『アンネの日記』をモチーフにし、弁論大会に向けて練習するスポ根的な要素、噂が渦巻くミステリーな要素がユーモアにくるまれて描かれている。バッハマン教授のキャラクターや、疑心暗鬼になっていく乙女たちは、どこかおかしみがある。そのおかしみにつられて読んでいくと、『アンネの日記』の深部がだんだんとわかってくる、そういう構造になっている。
読者は乙女たちが『アンネの日記』を読み込むのを疑似体験しながら、周囲の喧騒に巻き込まれていく、そういう小説だ。

『アンネの日記』の言葉と出合い、書くことを決意した

赤染は1974年京都生まれ。京都外国語大学を卒業後、北海道大学の大学院を博士課程まで行った。大学院ではドイツ文学を研究していたという。
2004年に『初子さん』で文學界新人賞を受賞しデビュー(2007年に単行本『うつつ・うつら』に収録)。昭和50年代、パン屋に下宿している洋裁師・初子さんの生活を描いた。新人離れした時代描写が評価された。
『乙女の密告』で主題となる1944年4月9日のアンネ・フランクの言葉とは、2009年の夏に出会った。「アンネをやります」と担当編集者に言ったときは、不安でいっぱいだったという。そうして書き上げられた『乙女の密告』は『新潮』2010年6月号に載った。
その後、受賞後第一作としてグリコ・森永事件をテーマにした『WANTED!! かい人21面相』を発表。他2編を含んで短編集として出版された。

(赤染晶子さんは2017年9月18日にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りします)


乙女の密告
  • 菊地良
  • PROFILE

    菊池良

    1987年生まれ。ライター、詩人。2009年に「二代目水嶋ヒロ」を襲名。著書に『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』(共著・神田桂一)、『世界一即戦力な男』がある。

  • つのがいさん
  • プロフィール

    つのがい

    漫画家・イラストレーター。静岡県生まれ。漫画を描くこと、読むこととは無縁の生活を送ってきたが、2015年転職を境にペンを握る。絵の練習としてSNSに載せていた「ブラック・ジャック」のパロディ漫画がきっかけで、2016年手塚プロダクション公式の作画ブレーンとなった。

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